タイソンの乱
タイソンの乱は、18世紀後半のベトナムで起こった大規模な農民反乱であり、西山党と呼ばれる勢力が諸侯支配を打倒し、一時的に全国を統一した出来事である。西山党の指導者である阮岳・阮恵らは、両阮政権と呼ばれる阮氏一族の支配を倒すとともに、北部で権勢をふるっていた鄭氏も打倒し、国内秩序を再編した。また清軍やシャム軍を撃退したことで、対外的にも強いインパクトを与え、のちの阮朝成立へとつながる政治的転換点となった。
背景:両阮政権と社会不安
18世紀の東南アジアでは、対外交易の拡大と税負担の増大が重なり、各地で社会不安が高まっていた。大越とも呼ばれたベトナムでは、北部に鄭氏、南部に阮氏が並び立つ「両頭政治」が長く続き、地方では有力豪族が土地や農民を支配していた。重税や賦役、官僚の腐敗によって農民の生活は困窮し、山間部や辺境地域を中心に不満が蓄積していった。このような状況のもと、中部・西山地方の農村から全国規模へと拡大したのがタイソンの乱である。
西山党の蜂起と勢力拡大
西山地方の阮岳・阮恵・阮律の三兄弟は、地元農民や山地民を基盤として挙兵し、まず南部の阮氏政権に対抗した。彼らは、年貢と利息の軽減、貧民への土地再分配などを掲げ、地方豪族や商人の支持も取り込んでいった。西山軍は機動力に優れた軍隊を組織し、河川や海上交通路を活用して素早く各地を転戦したことで、南部の諸城を次々に攻略した。その過程で既存の徴税制度を一時的に緩和し、農民の支持を広げたことが、反乱が一過性に終わらず政権形成へ進んだ要因であると理解されている。
南北統一と対外戦争
西山軍は南部の阮氏勢力を追い落とすと、やがて北部の鄭氏支配にも矛先を向け、トンキン方面へ進軍した。北部ではすでに鄭氏への不満が強く、地方有力者の離反もあって西山軍は比較的短期間で支配権を掌握した。こうしてタイソンの乱は、単なる地方反乱から全国統一運動へと性格を変えていった。同時期、旧阮氏一族の阮福映はシャムに逃れて支援を求め、シャム軍は南部へ出兵したが、西山軍はメコン川流域の戦いでシャム軍に大勝し、その介入を退けた。この対シャム戦は、地域覇権をめぐるシャムと大越の対立の一場面でもあった。
清軍撃退と西山政権の樹立
北部での政変に対し、中華世界の宗主としての立場を自任する清朝は、旧王朝復活を名目に出兵し、ベトナムへの軍事介入を行った。これに対して阮恵は皇帝として即位し、西山軍を率いて北上する。旧正月を狙った奇襲や地形を活かした戦術により、西山軍は清軍を撃破し、ハノイ近郊で大勝した。この勝利により、西山政権は清朝から形式的な冊封を受ける形で、新たな王朝としての地位を承認される。ここでタイソンの乱は内戦段階を越えて、国際秩序に組み込まれた正統政権の樹立へとつながったのである。
西山政権の統治と矛盾
西山政権は、土地制度の見直しや税制の整理、軍制改革などを試みた。旧来の有力豪族や官僚を排除する一方、新たな人材登用を行い、中央集権的な統治をめざした点では、改革政権としての側面を持っていた。しかし内戦で荒廃した農村の復興には時間を要し、内部では権力をめぐる対立も生じた。西山三兄弟のあいだの不和や、各地の軍閥化は、政権の安定を大きく損なった。さらに、長期的な税収基盤を整える前に戦費や宮廷費用が膨らみ、当初約束した負担軽減策を維持することが難しくなったことも、支持の低下を招いた。
阮福映の反攻と乱の終結
一方、旧阮氏一族の阮福映は、シャムやフランス人宣教師・商人らの支援を受けて勢力を再建し、南部で独自の軍隊を整えた。彼は海軍力の増強や欧州式砲兵の導入などを進め、西山政権に対抗できる軍事力を形成した。西山政権内の内紛や地方反乱が続くなか、阮福映は徐々に勢力圏を拡大し、ついには西山軍の中核拠点を攻略することに成功する。19世紀初頭、阮福映が全国を制圧すると、西山政権は崩壊し、ここにタイソンの乱は終息した。阮福映は嘉隆帝として即位し、あらたに阮朝を開いた。
名称と歴史評価
この反乱は、指導者たちの出身地である西山(タイソン)にちなみ、「西山の乱」「タイソン朝」とも呼ばれる。中国史料や清の冊封体制の文脈では「西山国」と記されることもあり、呼称は文脈によって揺れがある。歴史学においてタイソンの乱は、単なる農民反乱にとどまらず、地域秩序と王朝構造を再編した社会革命的な性格をもつ出来事として位置づけられることが多い。
歴史的意義とその後の影響
タイソンの乱は、旧来の両阮政権体制を崩壊させただけでなく、農民や地方勢力が中央政治に直接影響を与えうることを示した点で重要である。反乱の内部矛盾によって最終的には阮朝の成立を許したものの、その過程で行われた土地再分配や税制改革、軍事制度の変化は、その後のベトナム社会に少なからぬ影響を残した。また、清軍やシャム軍を撃退した経験は、地域の国家間関係や対外観に影響を与え、のちに中国や欧米列強との関係が深まる局面においても、対外的自立を模索する一つの歴史的記憶として参照されることになった。