清
清は17世紀に東北アジアの女真系勢力が台頭して成立し、18世紀に最大版図を実現した多民族帝国である。1636年に国号を清と改め、1644年に北京へ入城して中原を掌握したのち、華北・江南からモンゴル・チベット・新疆に及ぶ広域を統合した。政治は皇帝専制を基軸に、満漢併用と地方統治の層構造を組み合わせ、軍事は八旗と緑営を併置した。康熙帝・雍正帝・乾隆帝の治世に制度が整い、人口と経済も拡大したが、19世紀には対外関係の緊張と内乱が重なり、20世紀初頭に崩壊へ向かった。
起源と成立
女真の長であるヌルハチは諸部を糾合し、軍政一体の枠組みとして八旗を整備した。子のホンタイジは国号を後金から清へ改め、漢人官僚と蒙古諸部を取り込みつつ国家機構を拡大した。明末の動乱の中、山海関の開門を契機に関内へ進出し、旧明領域の再編に着手した。基盤は満州にありつつも、都城を北京に据えて天下国家の継承を掲げた。
軍事と統合
清の軍事中枢は八旗で、満洲・蒙古・漢軍の三系統を旗籍で組織し、旗人は城内外に営寨を置いて駐屯した。地方治安や辺境駐防には緑営を配置し、軍政は皇帝と親軍機構が統率した。征服後は各地の旗営と州県・布政体系を併置し、地域社会を旗籍と民籍に重層化して管理した。
皇帝政治と官僚制
皇帝は詔令と日常政務を通じて中央・地方を直結させ、内廷の軍機処が機密と迅速決裁を担った。文武百官は満漢の併任が原則で、漢文官僚は科挙により継続的に登用された。州県レベルでは治安・租税・訴訟が行政の核で、巡撫・総督が広域を監督し、監察体系が不正の抑止を試みた。
領域拡大と藩部統治
清は康熙期に三藩の乱を平定し、台湾を編入して海上勢力を抑えた。内陸では蒙古諸部を帰属させ、チベットと保護・宗教権威の関係を結んだ。乾隆期にはジュンガル征討を経て天山南北路を鎮撫し、新疆の統治体制を整備した。藩部では土司や王公を編制内に位置づけ、中央の理藩機構が結節点となった。
経済と社会
17〜18世紀に農地拡大と新作物普及が進み、人口は大きく増加した。税制では人丁負担を地税へ組み込み、地方の財政運営を安定させた。江南の手工業・商業は繁栄し、地域間分業と流通網の発達が市場統合を促した。社会秩序は宗族・里甲・行会が支え、士大夫層が教育・司法・慈善で公共性を担った。
文化と学術
清は考証学の隆盛により経書・史籍の文献学的研究が深化した。皇朝事業として叢書編纂が展開され、典籍の収集・校勘が体系化される一方、禁書・文字の獄など統制も加わった。満漢二言語体制は公文書・学術双方に影響し、都市文化では戯曲・小説・版画が多様に発展した。
対外関係と通商
北方ではロシアとの国境画定が進み、草原・森林地帯の往来と交易が制度化された。南海方面では海禁が段階的に緩和され、広州一港による公行体制が整えられた。朝貢秩序は継続しつつも、実際の対外通商と外交は地域ごとに異なる調整が行われた。
19世紀の危機と崩壊
アヘン戦争以降、条約港の開設と関税主権の制約が進み、太平天国など大規模反乱が政財軍を消耗させた。洋務運動は近代技術・軍制の導入を試み、戊戌変法や新政が制度改革を模索したが、列強圧力と内在的矛盾は解消しきれず、辛亥革命で帝制は終焉した。こうして清はアジア大陸秩序の再編と近代国家形成の出発点を後世に残した。