マニラ開港
マニラ開港とは、1834年にスペイン植民地当局がフィリピンの首都マニラ港を諸外国の商船に開放し、従来の独占的なガレオン貿易体制を廃して自由貿易港へと転換した出来事である。16世紀以来、マニラはメキシコとのガレオン貿易の拠点として機能してきたが、その範囲はスペイン帝国の枠内に限定されていた。マニラ開港は、こうした閉じた交易構造を解体し、19世紀の世界市場へフィリピンを本格的に組み込む転機となったため、東南アジア経済史の重要な節目と評価されている。
植民地都市マニラとガレオン貿易
マニラは16世紀後半、スペインのフィリピン征服後に築かれた要塞都市であり、アジアとアメリカ大陸を結ぶガレオン貿易の一端を担っていた。この貿易はマニラとアカプルコを往復する大型帆船によって、絹織物や香辛料などのアジア産品と、銀を中心とするアメリカ産品を交換する仕組みであった。しかし、航路や取引相手が厳しく統制されていたため、現地社会や周辺アジア諸港との直接的な商業交流は限定的であった。19世紀に入るとガレオン貿易は衰退し、マニラの経済基盤は再編を迫られることになった。
マニラ開港の背景―東南アジア海上交易の競争
19世紀前半、イギリスは東インド会社を通じて東南アジアの海上交易網を急速に拡大し、マラッカ海峡沿岸には新たな中継港が整備された。たとえば、トーマス・ラッフルズの主導で建設されたシンガポールや、先行して開かれたペナンは、自由港として各国船舶を受け入れ、茶・砂糖・綿製品などの中継貿易で急速に繁栄した。さらにこれらの港は後に海峡植民地として一体的に運営され、東南アジア海域の主要な交易センターとなった。このような国際競争のなかで、スペイン本国でも自由貿易を重視する自由主義的潮流が強まり、植民地経営の立て直し策としてマニラ開港が構想されていったのである。
1834年のマニラ開港の内容
1834年、スペイン政府はマニラ貿易を独占していた特許会社を廃止し、マニラ港を諸外国の商船に開放する勅令を公布した。これにより、イギリス商船やアメリカ商船をはじめとする各国の民間商人が、許可制にもとづきマニラ港へ入港し、現地の仲買人や地主と直接取引を行う道が開かれた。輸出品としては砂糖、アバカ(マニラ麻)、タバコ、コプラなどが重視され、輸入品としては綿布や工業製品が大量に流入した。マニラ開港は単なる港湾施設の拡張ではなく、フィリピン経済を輸出農産物生産へと方向づける制度改革でもあった。
マニラ開港とフィリピン社会の変化
マニラ開港によって輸出農業が拡大すると、地方では大土地所有制にもとづくプランテーション経営が進展し、地主層と小作農との社会的格差が拡大した。一方で、マニラやセブなどの港湾都市には、スペイン人官僚層に加えて、中国系商人や土着エリート、さらにインド洋世界から渡来した印僑やインド人移民など、多様な商人集団が集住し、国際的な商業ネットワークを形成した。このような都市中間層は、やがてスペイン語教育を受けた知識人層(イラストラード)を生み出し、19世紀後半の民族意識・独立運動の担い手へと成長していく。
東南アジア植民地経済との連関
マニラ開港は、周辺の植民地経済とも密接に結びついていた。マラッカ海峡一帯では、イギリスのイギリス領マラヤや後のマレー連合州で、輸出向けのゴムやスズ資源の開発が進み、マニラ港にはそれらと補完関係にある商品や資本が流れ込んだ。また、英領インドやビルマ方面との海上航路も発達し、イギリスの対ビルマ進出をめぐるビルマ戦争やイギリス=ビルマ戦争によって、ベンガル湾から南シナ海にかけての海域は一層帝国間競争の舞台となった。このようにマニラ開港は、フィリピン内部の変化だけでなく、東南アジア全体を巻き込む植民地経済の形成過程の一環として位置づけられる。