ビルマ戦争|英帝国とビルマの抗争

ビルマ戦争

ビルマ戦争は、19世紀にイギリスがインドから勢力を東方へ拡大するなかで、ビルマ王国(コンバウン朝)とのあいだで3度にわたって行われた戦争である。通常は1824年から1826年の第一次、1852年の第二次、1885年の第三次を指し、その結果ビルマはイギリスに完全併合され、インド帝国の一部として統治されることになった。これらの戦争は、インド洋とベンガル湾を結ぶ海上交通、インドと中国南部を結ぶ陸上ルートをめぐる利害、そして東南アジア植民地化の進展という広い文脈の中で理解されるべき出来事である。

ビルマの地理と歴史的背景

ビルマは、インド亜大陸東部と東南アジア本土を結ぶ要衝に位置し、イラワジ川流域の肥沃な平野と豊富な森林資源を背景にコンバウン朝が強大な軍事国家を築いていた。王朝はアラカンやアッサム山地へ勢力を伸ばし、インド東部の藩王国と競合していたため、インドを支配するイギリス東インド会社との国境紛争が発生しやすい状況にあった。また、海上貿易の拠点であるラングーン港は、のちにシンガポールペナンとならぶ重要な輸出港へと発展する可能性を秘めており、イギリスにとって戦略的な価値が高かった。

第一次ビルマ戦争(1824〜1826年)

第一次ビルマ戦争は、アッサムやマニプルをめぐる国境紛争と、アラカンでのビルマ軍活動を口実として、イギリス東インド会社が軍事行動に踏み切ったことで始まった。イギリス軍は海上優位を活かしてラングーンを占領し、イラワジ川を遡って内陸へ進軍する一方、インド北東部からも攻勢をかけた。ビルマ側は山岳地帯と熱帯の気候を利用して抵抗したが、近代兵器の差と補給の負担により次第に不利となり、戦況はイギリス優位へと傾いた。

ヤンダボ条約と第一次戦争の結果

1826年のヤンダボ条約によって、ビルマはアラカンやテナセリムなどの領土をイギリスに割譲し、多額の賠償金を支払う義務を負った。この結果、ベンガル湾沿岸の広い範囲がイギリスの支配下に入り、インドとビルマのあいだの軍事的緩衝地帯は失われた。財政的負担と領土喪失はコンバウン朝の権威を大きく揺るがし、のちの第二次、第三次ビルマ戦争への伏線となったのである。

第二次ビルマ戦争(1852年)

第二次ビルマ戦争は、ラングーン港での通商紛争や関税問題を口実としてイギリスが艦隊を派遣したことから勃発した。イギリスはビルマ側の対応を「侮辱」とみなし、下ビルマへの軍事行動を開始してラングーンとデルタ地帯を占領した。戦闘自体は短期間で終結したが、その結果イギリスはペグー地方を含む下ビルマを併合し、ビルマの主要港湾と米作地帯を支配下に置いた。この時期、イギリスはすでに海峡植民地マラッカの植民地化を通じてマレー半島へも進出しており、ベンガル湾からマラッカ海峡へと連なる植民地ネットワークを形成しつつあった。

第三次ビルマ戦争(1885年)と完全併合

第三次ビルマ戦争は、フランス資本のビルマ進出に対する牽制と、王室との通商権をめぐる対立を背景に発生した。コンバウン朝最後のティーボー王がフランス企業に特権を与えようとしたことは、ビルマがフランス勢力圏に入るのではないかというイギリスの警戒を招いた。イギリスは王室に対して内政干渉的な要求を突きつけ、これを拒否したビルマに軍を送り、短期間の戦闘ののちマンダレーを占領して王を廃位・追放した。1886年、ビルマは正式にイギリス領インドの1州として併合され、王政は終焉を迎えた。

植民地支配下の社会経済構造

併合後のビルマでは、イラワジ川デルタの開発が進み、米作と輸出用農業が拡大した。イギリス当局は資本と技術を投入し、港湾都市ラングーンを国際貿易港として整備するとともに、周辺のイギリス領マラヤマレー連合州と結び付け、コメや木材、鉱産物などを集散させた。労働力需要の増大により、インドから多数の移民が流入し、ビルマ社会にはインド人移民を中心とする新たなエスニック構成が生じた。こうした動きは、東南アジア各地でゴムスズ採掘を担った移民社会の形成とも共通しており、植民地経済全体の構造変化と密接に結び付いていた。

東南アジア植民地化の文脈の中のビルマ戦争

ビルマ戦争は、インドから東南アジア本土へ伸びるイギリスの勢力圏拡大の一環として位置付けられる。イギリスは、インド洋の海上交通を押さえるためにペナンシンガポールを拠点とし、さらにビルマを併合することで、ベンガル湾からマラッカ海峡に至る連続した支配圏を築いた。同時期、オランダがスマトラ島でアチェ戦争を展開していたことからもわかるように、19世紀後半の東南アジアは列強の軍事行動と条約によって国境が再編される時代であった。この中で、ビルマ王国は独立を維持できず、植民地秩序の下に再編されることになったのである。