西山朝
西山朝は、18世紀末から19世紀初頭にかけてベトナム中部の西山地方で蜂起した西山党が樹立した王朝である。黎朝末期において北部の鄭氏政権と南部の阮氏政権が分立し、重税や汚職によって農民や商人の不満が高まるなか、農民反乱から出発して全国政権へ成長した点に特徴がある。西山朝は清朝軍を撃退して民族自立を示し、一時的にベトナムを再統一したが、指導者グエン・フエ(広中帝)の死後に急速に弱体化し、最終的に阮福映(嘉隆帝)による阮朝の成立によって滅亡した。
成立の背景
17〜18世紀のベトナムは、名目上は黎朝が存続していたが、実権は北方の鄭氏、南方の阮氏という有力武将家が握る政権分立の状態にあった。北方ではトンキンを中心とする鄭氏政権が、南方ではコーチシナを支配する阮氏政権が独自に軍事・財政を掌握し、王朝権威は形式的なものにすぎなかった。長期にわたる戦争や度重なる税の徴収は、農民・山地民・商人など広範な層に負担を与え、各地で反乱が頻発した。こうした社会不安と地方支配のゆるみが、のちに西山朝へつながる西山党蜂起の土壌となったのである。
西山党の蜂起と勢力拡大
西山朝の前身である西山党は、1771年ころ中部ビンディン(平定)付近の西山地方で挙兵した兄弟グエン・ニャック、グエン・ルー、グエン・フエによって率いられた。彼らは重税廃止や腐敗官僚の打倒を唱え、農民・山地民・商人・地方豪族を結集しながらゲリラ的な戦闘で阮氏政権を圧迫した。やがて西山軍は沿岸部の都市や港湾を掌握し、米や塩などの流通を押さえることで軍資金と兵糧を確保しつつ勢力を拡大していった。西山党の運動は、封建領主支配に対する社会革命的な側面と、地域有力者による新たな政権樹立という側面を併せ持っていたとされる。
- 西山朝の基盤となる兵力は、農民や山地民など下層民を中心に構成された。
- 西山軍は地方豪族や商人とも結びつき、軍需物資の調達や情報網の整備を進めた。
- 反乱の正当性を示すため、腐敗した官僚の処罰や倉庫の開放など、民衆に直接利益を与える措置もとられた。
広南・黎朝政権の打倒
西山軍はまず南部の阮氏政権に対して優位に立ち、1780年代前半までにその拠点を次々と攻略した。続いてグエン・フエは北上して鄭氏政権が支配するトンキンに進軍し、1786年には首都タンロンを制圧して鄭氏を打倒することに成功した。この過程で西山軍は、形式的に残されていた黎朝の皇帝を擁立し、自らの軍事行動に王朝の正統性を付与しようとした。だが、宮廷内や地方で旧支配層との対立が続き、内戦状態は完全には収束しなかった。こうして西山朝は、旧来の諸勢力を排除しつつ自らの政権を確立しようとする段階に入っていく。
清軍撃退と王朝樹立
西山軍によるトンキン制圧に対して、北隣の清朝は旧来の黎朝勢力からの要請を受けて出兵した。1788年、清軍が大軍を率いてベトナム北部に侵入すると、グエン・フエは一時中部に退き態勢を立て直したうえで、自ら皇帝として即位し広中帝と称した。彼は正月の奇襲作戦によって清軍の主力を打ち破り、1789年のドンダーの戦いで決定的勝利を収める。清朝は講和に応じ、広中帝をベトナム支配者として承認したことで、国際的にも西山朝の存在が認められた。この清軍撃退は、のちにベトナム民族の対外防衛の象徴的な勝利として記憶されることになる。
内政と改革
広中帝は、短い統治期間ながら国内統一と財政再建を目指して諸改革を実施した。行政面では地方官僚の任免を中央権力の下に再編し、軍事面では民兵組織を整備して辺境防衛と治安維持にあたらせた。経済面では、荒廃した農地の復興と灌漑施設の修理を奨励し、逃散農民の帰村を促すことで生産基盤の立て直しを図った。また、商業都市や港湾の復興に努め、国内交易と対外貿易の再活性化を通じて税収の増加を狙った。こうした政策は、旧来の領主支配を相対化し、新たな中央集権的秩序を築こうとする西山朝の志向を示している。
- 土地台帳の再編成と収穫に応じた課税を試み、農民負担の公平化を図った。
- 兵農分離的な軍制の導入により、常備軍の整備と農業生産の両立を目指した。
- 儒教的秩序を重んじつつも、現実の軍事・財政需要に即した柔軟な施策がとられた。
衰退と滅亡
しかし、広中帝は1792年に急死し、その後継をめぐって西山朝内部で対立が生じた。若年の皇帝と有力武将・官僚との権力争い、地方軍閥の離反などが重なり、中央の統制力は急速に低下した。この混乱のなかで、かつて西山軍に敗れて国外に逃れていた阮福映が勢力を回復し、フランス人宣教師らの支援を受けて近代的武器と軍事技術を導入した軍隊を整備した。1790年代後半から阮福映軍は南から北へ進撃し、各地で西山軍を破っていった。1802年、阮福映は最終的に西山政権を打倒して嘉隆帝として即位し、フエを都とする阮朝を開いたことで西山朝は滅亡した。
歴史的意義
西山朝は存続期間こそ短かったが、ベトナム史においていくつかの重要な意義をもつ。第一に、黎朝末期の分裂状態を打破し、南北に分かれていた領域を一時的にせよ再統一した点である。第二に、農民反乱から全国政権へ発展した運動として、封建支配に対する下からの社会変動の可能性を示したことである。第三に、清軍撃退という軍事的成果を通じて対外的自立を印象づけ、のちの民族運動においても参照される歴史的記憶を形成した点が挙げられる。こうした評価をめぐる議論は、ヨーロッパ近代思想を論じたニーチェやサルトルの受容とも絡めて、革命と権威、民衆運動と国家形成の関係を考察する素材ともなっている。さらに、軍事技術や武具の変化を考えるうえでは、鉄製の部品やボルトの利用拡大といった物質文化史の視点から西山朝期の戦争を分析する試みも行われている。