サイゴン条約
サイゴン条約は、19世紀中葉のインドシナ半島において、フランスとベトナムの対立を決定的に転換させた不平等条約である。1862年、フランスとスペインの連合軍に敗北したベトナムの阮朝政府が、南部3省を割譲し、港湾の開港や賠償金支払い、宣教師保護などを認めたことで、後のフランス領インドシナ形成への道が開かれた。この条約によってベトナムは主権を大きく制限され、植民地化の過程が本格化することになった。
成立の歴史的背景
19世紀前半、ベトナムでは越南国を統治する阮朝が成立し、首都フエを中心に伝統的な王政が維持されていた。しかし国内では、先行する西山朝・タイソンの乱以来の社会不安が残り、地方支配は必ずしも安定していなかった。一方で16世紀以降に進出していたカトリック宣教師、とくに18世紀末にピニョーが阮福暎を支援したことなどを契機に、フランスとベトナムは宗教と政治をめぐる複雑な関係を抱えるようになった。19世紀になると、阮朝によるキリスト教徒弾圧が強まったことを口実に、フランスは軍事介入の機会をうかがうようになった。
フランス・スペイン連合軍の出兵と講和交渉
1858年、フランスとスペインは宣教師保護と通商拡大を理由としてベトナムへの武力干渉を開始し、ダナン攻撃に続いてサイゴンを占領した。阮朝廷は首都フエから抵抗を続けたが、地方官や民衆の協力を十分に得られず、南部では連合軍の軍事的優位が明らかとなった。長期戦による財政難と国内の不安定化を前にして、フエ朝廷は講和交渉を受け入れざるをえず、その結果として1862年にサイゴン条約が締結されることになった。
サイゴン条約の主な内容
サイゴン条約は、ベトナムの主権を大きく制限し、フランスの権益を保証する条項から成り立っていた。その要点は次のようにまとめられる。
- ベトナム南部の3省(ビエンホア・ジャディン・ディントゥオン)と沖合の島嶼をフランスに割譲し、フランスによる直接支配を認めること。
- サイゴンなど複数の港湾を開港し、フランス商人に通商上の特権と治外法権的な保護を与えること。
- カトリック教会と宣教師の活動の自由を認め、これまでの迫害を停止すること。
- 戦費名目の多額の賠償金をフランス側に支払い、分割返済を行うこと。
これらの条項は、同時期に東アジア各地で締結された不平等条約と共通する性格を持ち、アジア諸国が列強の軍事力に屈して主権を制限されるという典型的な構図を示している。
フランス植民地支配の進展
サイゴン条約による南部3省の割譲は、フランスによるコーチシナ植民地支配の出発点となった。フランスは、条約で獲得した拠点を足掛かりに、周辺地域への軍事行動と行政整備を進め、やがて南ベトナム一帯を直轄植民地として編入した。その後、メコン河流域やラオス・カンボジアにも影響力を拡大し、19世紀末にはフランス領インドシナ連邦の形成へとつながっていく。この過程で、インド洋や東アジアにおける帝国主義競争の一環として、インドシナはフランス世界戦略の重要な一部を占めるようになった。
ベトナム社会と阮朝への影響
サイゴン条約は、阮朝の威信と統治基盤を大きく揺るがした。南部の肥沃な稲作地帯の喪失は王朝財政に深刻な打撃を与え、賠償金負担は増税や労役の強化となって民衆にのしかかった。また、フランスの保護を受けるカトリック教会の存在は、伝統的な村落共同体や儒教的秩序との摩擦を生み、社会的分断を深めた。王朝内部でもフランスへの徹底抗戦を求める強硬派と、条約受け入れによって体制の温存を図ろうとする妥協派が対立し、宮廷政治は一層不安定化した。その結果、各地で抗仏運動や義勇兵の蜂起が頻発し、ベトナム社会は長期にわたる動揺期に入ることになった。
第二次サイゴン条約とその後の展開
1862年のサイゴン条約の後も、フランスは軍事力と外交交渉を組み合わせながら、ベトナムへの支配を拡大していった。1874年には、いわゆる第二次サイゴン条約が締結され、名目上ベトナムの独立を承認する一方で、フランスの通商・外交上の優越権をさらに強める内容が盛り込まれた。その後、トンキン方面への介入や清朝との戦争を経て、1880年代にはベトナム全土が事実上フランスの保護下に置かれることになり、阮朝は形式的な王朝としてのみ存続する状態となった。
世界史におけるサイゴン条約の位置づけ
サイゴン条約は、19世紀の帝国主義時代におけるアジア分割の初期段階を象徴する出来事の一つである。軍事的優位を背景とした領土割譲、治外法権、港湾開港、宣教師保護などの条項は、同時期の清との条約や日本の不平等条約と共通する特徴を備えている。その意味で、この条約はインドシナ地域の歴史にとどまらず、列強によるアジア進出と植民地支配の過程を理解するうえで重要な事例であり、ベトナム近代史と世界史双方の文脈から検討されるべきテーマである。