近藤勇|新選組局長,天然理心流宗家,池田屋

近藤勇

天保5年(1834)10月5日~明治元年(1868)4月25日。天然理心流宗家四代目、新選組局長、幕臣。新選組として京都の治安維持を担い、反幕府の志士たちを取り締まった。徳川幕府崩壊後、再起を図るが新政府軍(官軍)に捕らえられて処刑された。

近藤勇
近藤勇

目次

近藤勇の略年

  • 1834年 武蔵国多摩の豪農である宮川久次郎の三男として生まれる
  • 1849年 近藤周助の養子となる
  • 1860年清水家の家臣の松井八十五郎の娘ツネと結婚
  • 1861年 天然理心流、4代目となる
  • 1863年 浪士組に参加。京都守護職の松平容保の指揮下に入る。新選組が生まれ、局長となる
  • 1864年 池田屋事件・禁門の変が起る
  • 1867年 見廻り組頭取に任命され、幕臣となる
  • 1868年 鳥羽・伏見の戦いに敗れた。江戸へ戻り、甲陽鎮撫隊を組織し、官軍と山梨で戦い敗れる。下総の流山で捕らえられ、斬首。

近藤勇の生誕

近藤勇は、天保5年(1834)10月5日、武蔵国多摩郡石原村辻の農民である宮川久次(郎)の三男として生まれる。嘉永2年(1849)に天然理心流宗家であり試衛館主の近藤周助の養子となり、江戸・牛込市ヶ谷甲良屋敷に居住する。近藤勇は剣術の才能に長けており、万延元年(1860)に天然理心流宗家の四代目を継承した。

結婚

1860年に武蔵国にいた清水家の家臣の松井八十五郎の娘ツネと結婚した。娘は瓊子(たまこ)という。娘の婿には近藤勇の長兄の次男、勇五郎を迎えて養子とし、二人の子は久太郎という。近藤勇の孫に当たる。久太郎は日露戦争で戦死し、妻のツネは56歳、瓊子は25歳という若さで他界し、近藤勇の血は途絶えてしまう。

新撰組発祥の地1
新撰組発祥の地1

新選組の結成

文久3年(1863)、将軍徳川家茂が上洛するにあたり、幕府は将軍の警護として剣術に熟達した者たちを集めた。内実としては、活発化していた浪士たちを幕府が取り込むことで人心を安定させることにあった。近藤勇は、試衛館の門下生であった土方歳三・沖田総司・永倉新八らと共にこれに参加した。この「浪士隊」は清河八郎と講武所剣術世話心得の山岡鉄太郎の指揮下にあった。しかし、清河八郎らと対立した近藤勇らは、そのまま京都に残留した。壬生村にいたため、「壬生浪人」と称された。その後、京都守護職・会津藩主松平容保の預かりとなり、新選組が結成された。当初は芹沢鴨が新選組局長であったが、素行が悪く近藤勇らによって粛清された。新選組は京都市内の警衛に従事し、不逞だと見られた者たちを取り締まった。

新撰組発祥の地
新撰組発祥の地

池田屋事件と禁門の変

元治元年(1864)、長州藩士などを支持する古高俊太郎を逮捕した。京都の焼き打ち計画などについて古高俊太郎から自白を得た新選組は池田屋を襲撃し、この計画に参加していると見られた多数の浪士などを斬った。当時、京都から追放されていた長州藩は出兵を決めていたが、この「池田屋事件」を契機にさらに強硬姿勢を固めた。いよいよ、京都に長州藩兵が進撃してきた際に、新選組も出動し、「禁門の変」を戦い抜いている。

政治家・近藤勇

近藤勇は、清河八郎の浪士組に参加した際には「尊王攘夷」の志に燃えており、新選組となってからも、その思いは変わらなかった。しかし、幕府・会津藩が京都において過激な浪士などを取り締まる中で、近藤勇はその方針に従い、政治思想では共有していた浪士たちを取り締まることになる。幕府と長州藩の交渉などの場面においては幕臣の永井尚志に付き従っており、幕府の方からも近藤勇の政治的能力に目が付けられていたのではないかと考えられている。慶応3年(1867)に見廻組頭取となり、幕臣に取り立てられた。

混沌を極める政局と新選組

慶応3年(1867)、幕臣に取り立てられた近藤勇だが、政局はますます混沌を極めた。将軍徳川慶喜の大政奉還によって新政府の樹立が急がれたが、徳川家の処遇をめぐって諸勢力が対峙した。元は同じ新選組であった伊東甲子太郎一派は、御陵衛士という天皇の墓守として朝廷に近い存在になっていたが、近藤勇らはこれを粛清した(油小路の変)。
王政復古の大号令では幕府がなくなることが宣告されて、新選組や会津藩は蚊帳の外に置かれた。さらに、伊東甲子太郎一派の生き残りが伏見街道を通っていた近藤勇を狙撃した。近藤勇は負傷して大坂城にて静養し、その後の鳥羽・伏見の戦いには参加できなかった。

再起を図るが・・・

慶応4年(明治元年・1868)1月、鳥羽・伏見の戦いに敗れた新選組は、生き残った者たちで関東に退いた。負傷して大坂城で静養していた近藤勇も、鳥羽・伏見の戦いを指揮できなかったが、関東に退くことで再起を図った。近藤勇は、「大久保大和」と改名し、新選組を「甲陽鎮撫隊」と改称して甲府の平定に乗り出したが、官軍に先を越された。甲州勝沼の戦いで官軍に敗れた近藤勇ら新選組・甲陽鎮撫隊は再び敗走し、下総流山に陣を構えて再起を図ることになった。しかし、やがて官軍に本陣を包囲され、近藤勇は出頭することになった。自らは新選組の近藤勇ではなく、大久保大和であるとしていたが、官軍に正体を見破られた。4月25日、板橋にて斬首され、首は京都の三条河原に晒された。

参考文献

「近藤勇」『国史大辞典』(執筆:芳賀登)。
松浦玲『新選組』(岩波書店、2003年)。
宮地正人『歴史のなかの新選組』(岩波書店、2004年)。
中村武生『池田屋事件の研究』(講談社、2011年)。


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