鳥羽伏見の戦い|戊辰戦争,徳川慶喜の敗走

鳥羽伏見の戦い|戊辰戦争

鳥羽伏見の戦いは、鳥羽口で一発の大砲が放たれたのをきっかけとして行われた戊辰戦争である。旧幕府軍は、様子を見ていた畿内諸藩の寝返りにより敗戦する。徳川慶喜は大阪城に兵を置いて江戸に逃れることとなり、当時、多くの批判を集めた。

徳川慶喜

徳川慶喜

>大政奉還

徳川慶喜が大政奉還を実現すると、旧幕府方には将軍の辞官納地決定に不服の者も少なくなかった。また、新政府側でも岩倉具視らの急進派と山内豊信(容堂)らの穏健派の対立が続き、形勢は穏健派に傾いていた。一方、大政奉還により、新政府の主導権を徳川慶喜に握られていた薩摩藩は、挑発を続け、旧幕府軍を撹乱する工作を実行した。これに対抗するように、1867年12月25日、徳川慶喜の意に反する形で江戸では庄内藩によって薩摩藩邸の焼打ちが行われることになる。

薩討表

大坂にいる徳川慶喜のもとに伝えられると、会津藩や桑名藩、旗本らは薩摩藩の武力的弾圧に傾き、ついに1868年元日、薩摩藩士を誅戮(罪ある者を殺すこと)するという「薩討表」を起草し、薩摩藩に軍を進めることを旧幕府軍に伝えた。1869年1月2日大河内正質を総督とする旧幕府軍総勢15,000人が京都を目指して出発した。

軍進

京都に出発した旧幕府軍の軍勢は、大目付の滝川具挙らが鳥羽街道を、総指揮官の陸軍奉行の竹中重国が伏見街道を進み、二手に分かれた。迎える新政府軍は、薩摩藩らは鳥羽街道を、長州藩らは伏見街道を守備した。

鳥羽伏見の開戦

夕方、淀城に入った旧幕府軍は、二手に分かれて京都を目指すこととなった。陸軍奉行の竹中重固(たけなかしげたか)は伏見街道を北上し、伏見奉行所を本陣とし、大目付の滝川具挙らの別働隊は鳥羽街道を北上して京都へ向かった。これに対し、新政府軍は長州藩らが伏見奉行所を包囲し、薩摩・彦根藩士らは鳥羽街道を固めた。

朝敵としての旧幕府軍

1月3日夕刻、鳥羽口の幕府陸軍奉行の大久保忠想が薩摩藩に強行突破を通告し、薩摩藩の砲撃が始まった。砲撃の音をを聞いた伏見口でも戦闘が始まることになる。1月4日、薩摩藩は宮廷工作を行い、仁和寺宮嘉彰親王を征討大将軍とし錦旗を立て進軍した。これにより徳川幕府が薩摩藩を征伐するという戦いから、新政府軍と旧幕府軍との戦争に転化し、旧幕府軍は朝敵となってしまう。そのことに朝廷を尊重していた徳川慶喜は衝撃を受けたと言われている。

鳥羽・伏見の戦い

1月5日、淀藩は旧幕府軍の入城を拒否した。旧幕府軍は八幡・橋本へ退いた。1月6日、旧幕府方の味方であった津藩(藤堂氏)が山崎から、八幡・橋本の旧幕府軍に砲撃した。同夜、徳川慶喜は大坂城を抜け出し、船(開陽丸)で江戸に戻った。

徳川慶喜の大坂へ

徳川慶喜の大坂へ

江戸への逃亡

鳥羽・伏見の戦いで敗れた徳川慶喜は、1888年1月6日夜、松平容保(京都守護職)、松平定敬(京都所司代)、老中酒井忠、老中板倉勝静をともない、大坂城に兵を残したまま、秘密裏に幕府の軍艦開陽丸で江戸城に戻る。このとき幕府の軍艦を率いていたのが榎本武揚であった。一方、鳥羽・伏見の戦いに勝利した朝廷は、1月7日、徳川慶喜の追討令を発し、将軍、容保、定敬らの官位剥奪と旧幕府領を新政府の直轄とすることを発表した。

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