福沢諭吉|慶應義塾,啓蒙思想,「天は人の上に人を造らず」

福沢諭吉

福沢諭吉は、明治時代の代表的啓蒙思想家。主著『文明論之概略』『学問のすすめ』『西洋事情』。豊前(大分県)の中津か藩の下級武士の家に生まれ、身分が低いゆえに不遇であった父親を思って、のちに「門閥制度は親の敵などでござる」と語った。欧米の文明を見聞して日本の近代化の必要を説き、1868年に慶應義塾を開き、また当時、啓蒙思想運動の中心であった明六社に参加した。福沢諭吉の主張は、西洋文明を表面的に輸入するのではなく、西洋の近代社会を根本的に把握し、自由や権利の概念を明らかにすることであり、一般人にも広く世界という観念を提示した。また、慶應義塾における英語の原書による講義や著述活動によって、近代化を妨げる封建的慣習や儒学、および官尊民卑の風潮を天賦人権論により批判し、功利主義に立つ「実学」の必要性や個人の独立が国家の独立に不可欠であることを説いた。後に近代化が進み、日本と欧米列強の競争が激化すると富国強兵を重んじ、政治的安定のため官民調和論を、欧米によるアジア分割の流れには脱亜論を展開していった。

福沢諭吉の銅像

福沢諭吉の銅像

福沢諭吉の生涯

福沢諭吉は、豊前(大分県)中津など藩の下級武士の次男として、大坂堂島の藩蔵屋敷に生まれたが、1歳のとき、父が死に、中津に帰った。父親は学の優れた人物ではあったが、封建的身分制度の壁に阻まれ、不遇の境遇であった。福沢諭吉は、後に「門閥影制度は親の敵でござる」といわされるほど、中津での境遇は、彼にとって不快なものであり、封建制度に対し、深い憤りを覚えた。19歳で長崎に出て、蘭学を学ぶことができたが、上司と衝突し、長崎を追われた。大坂に入り、緒方洪庵営などの適塾にで蘭学を学び、1858年、江戸に出て中津藩屋敷に自ら、蘭学塾を開いた。しかし、国際情勢に精通していた福沢諭吉は、イギリスの学問の必要性を感じ英語を独学した。1860年、幕府の遣米使節団に通訳として加わり、勝海舟率いる咸臨丸に乗船して渡米した。咸臨丸は、アメリカの船員もいたが、船の運営は階級や身分、人種にかかわらず、安全な運行という一つの目標に船員全員が力を合わせねばならない。アメリカでのこうした経験から啓蒙思想家としての福沢諭吉の方向性を決定づけた。以後2度(1862、1867)にわたって欧米諸国を巡歴し、政治からガス灯まで西洋の制度と理念の全容を『西洋事情』(1866~70)で紹介している。1872年には『学問のすすめ』を、1875年にはおもに知識層に向けて『文明論之概略』を公刊し、封建的な教学・道徳を批判し、日本近代化の道を説き、啓蒙活動を展開した。この間、1868年には「慶應義塾」(後の慶應義塾大学)を開校する。維新動乱中も原書で経済学を講じつづけた。当時の知識人ではめずらしく、軍学・医学中心の洋学の中で、社会制度を重視する姿勢を示した。1873年には、明六社の創立に参加した。度重なり政府に招かれたが、すべて断り在野の思想家・学者としてその生涯を生きた。

福沢諭吉の生涯

1835 中津藩大坂蔵屋敷に生まれる。
1836 父死去、中津(大分県)に戻る。
1854 長崎に出て蘭字修行する。
1855 緒方洪庵の適塾に入門する。
1857 適塾の塾頭になる。
1858 江戸で蘭学塾を開く (後の慶應義塾大学)。
1860 咸臨丸で渡米する。
1862 文久遣欧使節の翻訳方として渡欧する。
1867 幕府の随員として渡米する。
1873 明六社結成に参加する。
1901 脳溢血で死去する。

福沢諭吉の基本思想

福沢諭吉の目的は、個人の自立・独立心を育て、小国日本の富国強兵をはかることであった。独立自尊の個人となるためには、天賦人権論に基づく個人の自覚と、合理的・実用的な学問が不可欠であり、一身独立してこそ一国独立すると提唱した。特にイギリス功利主義の影響を受けた福沢諭吉は、イギリス思想の根底である個人主義・自由主義・合理主義を国民生活に取り入れようとした。晩年、1882(明治15)年発刊の新聞『時事新報』の社会啓発と慶應義塾の運営による人材育成に務めた。不平等条約に苦しみ欧米に包囲された日本は、官民調和・富国強兵へと転回していかなければならなかった。日本が文明化に成功し、欧米列強のアジア分割が再開すると、一国の独立を守るためには、欧米列強と肩を並べてアジアにおける植民地獲得競争に参入するべきであるという考えから、激化する自由民権運動に対し、官民が調和して列強に対抗する官民調和論と脱亜論が導き出された。

福沢諭吉

福沢諭吉

明六社

明六社は森有礼の主唱によって結成された、啓蒙思想運動を目的とする学会である。福沢諭吉もまた、明六社に所属し、機関誌『明六雑誌』を刊行して、西洋の近代思想の紹介に努め、開化期の日本に大きな影響を与えた。福沢諭吉は、刊行物や研究会などを通し、明治初期の日本に、西洋文明やイギリス・フランスの啓蒙思想を紹介し、市民に国民や国家の進むべき方向を示した。

天賦人権論

『学問のすゝめ』は、人間は生まれながらにして自由・平等に生きる権利をもつという天賦人権論に立脚している。現実の差別は、学問の有無による生き方によって生ずると説明した。「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずと云えり」といい、天賦人権の思想をあらわした。差別は、学問の有無で生まれるとした。学問とは実学のことで、実学によって個人が独立することは、一国の独立の基本となると説いている。

福沢諭吉『学問のすゝめ』

天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと言えり。されば天より人を生ずるには、万人は万人皆同じ位にして、生れながら貴賤上下の差別なく、万物の霊たる身と心との働きをもって天地の間にあるよろずの物を資り、もって衣食住の用を達し、自由自在、互いに人の妨げをなさずして各々安楽にこの世を渡らしめ給うの趣意なり。

人は生れながらにして貴賤貧富の別なし。ただ学問を勤めて物事をよく知る者は貴人となり、富人となり、無学なる者は貧人となり下人となるなり。

独立自尊

独立自尊とは、人間の尊厳を自覚し、個々人が他人や政府に依存せず、それぞれ自主独立の生活を営もうとする精神である。福沢諭吉は、独立自尊という言葉で近代的・市民的な自主独立の精神をさし、個人の自立心や独立心を尊重した。「無形の独立心」こそ文明を支える基軸であり、「一身独立して一国独立」と述べ、国権と民権とを内面的に関連させ、「一身独立」と「一国独立」とを不可分のものであるとした。

独立の気力なき者は、国を思うこと深切ならず。独立とは、自分にて自分の身を支配し、他によりすがる心なきをいう。みずから物事の理非を弁別して処置を誤ることなき者は、他人の知恵によらざる独立なり。みずから心身を労して私立の活計なこをなす(生計を立てる)者は、他人の財によらざる独立なり。(『学問のすすめ』)

実学

福沢諭吉は、東洋の学問(漢学)を「虚学法」(むなしい学問)と呼び、西洋の学問を実学と呼んだ。実学とは、端的に実生活に役立つ学問のことであるが、欧米から流入した物理学、数学、地理学、歴史学、経済学といった近代科学も含まれる。『学問のすすめ』の中で、「有形においては数理学(合理的な近代諸科学のこと)」また「人間普通日用に近き実学」と実学を説明している。これらを身分に関係なくみなが学ぶことで一身独立し、一家の独立がなされ、一国の独立が可能になるとした。

官民調和

官民調和とは、官(国権)と民(民権)の歩み寄りを象徴する言葉で1880年代から福沢諭吉はこの言葉を使った。国家・政府の権力と民衆の権利との調和をはかろうとする考え方である。欧米列強の進略から日本の独立を守ることを第一の目的とした福沢諭吉は、それを阻害しかねない急進的な自由民権運動を「駄民権」と呼んで反対し、官民調和の上での政府の富国強兵策を支持した。国会の設立は必要だが、富国強兵や増税を否定することはできない。国民は日本の軍備拡張のため権利の主張を保留し、国会開設までは参政権なしに租税を徴収されることに耐えるよう説いた。

福沢諭吉

福沢諭吉

脱亜論

1885年、福沢諭吉は、日本が西欧的な近代国家への仲間入りを目指す脱亜論を指した。脱亜とは、アジアを脱するという意味で、近代的な改革の進まないアジアの諸国との連帯からぬけだし、近代的な西洋諸国の仲間入りをする脱亜入欧をとなえた。

日本は、古い慣習・制度を打ち壊し、アジアの中で新機軸を打ち出した。国土はアジアの東端にあるが、国民の精神は西洋の文明に移った。しかし、隣国の中国と朝鮮は、相変わらず儒教主義に基づいて旧依然としているので、この2国とともにアジアを興すなどとは考えず、仲間から抜け出して西洋の文明国と行動をともにすべき

『学問のすゝめ』

『学問のすゝめ』は、大半が福沢の文章で自身の理念の表明である。人は生まれながらに貴賤や身分の差別はないと、天賦人権論を説いたが、実際に差が生ずるのは、学問の有無によるとした。
ここでいう学問とは、「実学」で、実際に役に立ち、立身のためのものでなければならないとした。「独立」とは自分で考え、自分の判断で行動することで、独立には自身による判断と、独立 の生計を立てるという二つの意味をもつとし、独立するためには、立身のための「実学」と、人民自身が独立の「気力」をもつべきであると考えており、一身の独立なくして一国独立はかなわないと主張した。

今日の謀(はかりごと)を為すに、我国は隣国の開明を待て共に亜細亜を興すの猶予ある可らず。寧ろ其伍を脱して西洋の文明国と進退を共にし、其支那朝鮮に接するの法も、隣国なるが故にとて特別の会釈に及ばず、正に西洋人が之に接するの風に従て処分す可きのみ。悪友を親しむ者は共に悪名を接かる可らず。我れは心に於て亜細亜東方の悪友を謝絶するものなり。

『学問のすすめ』

『学問のすすめ』は、幅広い大衆に向けられた啓蒙的学問書となっている。1872(明治5)年に出版されて約20万部という空前のベストセラーとなり、新時代の精神的支柱となった。天賦人権論・独立自尊・実学の必要性について書かれている。福沢諭吉は日本が独立し、近代国家の道を歩むことを目指した。階級打破の可能性を示したため、民衆の支持を集めた。

『西洋事情』

福沢諭吉は1860年に勝海舟率いる咸臨丸で渡米し、翌年1861年にはヨーロッパへ、1867年には二度目の渡米を果たしている。『西洋事情』は、視察した欧米の西洋文化を紹介したもので、1873(明治6)年に刊行された。

『文明論之概略』

『文明論之概略』(1875 明治8)に刊行された。古今東西の文明発達の事例から、日本が独立を確立するためには、西洋近代文明を摂取し、日本はその文明を追尾するべきであると力説した。

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