諸子百家 しょしひゃっか
諸子百家とは、春秋時代末期から戦国時代に現れ、時代に対処するさまざまな方策を説いた思想家や諸学派の総称である。周王朝の崩壊と諸侯の富国強兵による実力主義の中で、国家・社会の秩序の再建策や世を生きぬく世界観・処世観を説き、中国学術思想の諸源流となった。諸子とは、多くの学者、先生を意味し、百家とは、多数の学者という意味で、ここでの百とは数字ではなく“多く”の、という意味である。その多くは春秋戦国時代に活躍したが、名家や法家、陰陽家といった学派はその次代には存在していない。
儒家
儒家は、孔子を祖として、徳治主義に立つ学派である。戦国時代の孟子・荀子に受け継がれて発展し、前漢時代に官学とされて以降、歴代王朝の専制体制を支える正統教義となった。日本にも受け入れられ、特に江戸時代で儒学として大きく発展した。
墨家
墨家は、墨子を祖とする学派である。徳地主義に立つ儒家を批判、孔子の仁を差別愛として退け、兼愛(自他の区別のない平等無差別の愛)、非攻(侵略戦争の否定)、尚賢(有能な者の任用)、非楽(雅楽の廃止)、節用(浪費を慎む)、節葬(葬礼の廃止)などを説いた一方で、形式的な礼楽を蔑視した。戦国時代に儒家と論争した。秦・漢以降はその勢力は衰退した。
道家
道家は、老子を祖とし、荘子らによって継承・発展させた学派である。宇宙原理としての自然の道を求め、儒家や農家の説を人身的な利を説くものとして否定し、無為自然(自然の原理にしたがって生きること)を説いた。後代には民間信仰などと結合して、道教の源流の一つとなった。
法家
法家は、無力な礼ではなく、君主の定めた法による信賞必罰を励行し、人民を統治することを主張した学派である。斉の桓公に仕えた管仲をもち、韓に仕えた申不害と、秦に仕えた商塾・韓非・李斯で知られる。
陰陽家
陰陽家は、天文暦学を基盤として、天体の運行によっておこる現象と人間生活との関係を説いた学派である。陰陽家の思想は、万物の変化を木・火・土・金・水の五要素の循環によって説く五行説と密接に結びついた。代表は鄒衍である。
兵家
兵家は、兵法・戦略を説いた学派である。単なる用兵・戦術にとどまらず、内政に意を用い、兵を凶器とし、兵法はそれをさける方法と考えた。孫子や呉子、呉の闔閭に仕えた孫武、戦国時代の斉の孫臏で知られる。
名家
名家は、名(言葉・概念)と実(形・本質)との関係を明らかにしようとした論理学派である。公孫竜で知られる。結果的には言葉の概念の限界性を指摘することにとらわれ、詭弁におちいった。秦・漢以降は衰退することになる。
農家
農家は、、戦国時代に許行が神農の教えとして、農民の立場から、農耕の重要性を説いた。君主も民平等に農耕すべきことや、物の価格を均一にすべきことを主張した。一種の平等説であったが、彼の死後、消滅するにいたる。
縦横家
縦横家は、戦国時代に弁舌とをもって諸国の君主に取り入り、外交的手腕を発揮した戦略家である。秦の張儀がその代表である。『戦国策』は縦横家らの策謀を国別に記録されている。
劉向
前漢成帝の時代に秘府(宮中の図書館)が所蔵する典籍の校正を行う。校正が終わるたびに目次と解題を作成し、それを叙録としてそれぞれの書物に附載して皇帝に奏上した。こうして劉向が作った叙録だけを集めた書物が『別録』である。しかし残念ながら現存に残されていない。
劉歆
劉向の息子。劉向の仕事を引き継いだ。完成したとともに、秘府の典籍を七種に分類して『七略』を著した。『七略』の内訳は輯略、六芸略、諸子略、詩賦略、兵書略、術数略、方技略の七種である。ただし、輯略は、全体の総論であるから、実質的には六種であるといえる。なお、残念ながら『七略』も残されていない。
後漢の班固
『七略』を踏襲して『漢書』の「芸文志」を作成した。1.儒家、2.道家、3.陰陽家、4.法家、5.名家、6.墨家、7.縦横家、8.雑家、9.農家、10.小説家の十種に分類されている。10.小説家はちっぽけな話という意味で、諸子百家を除外して九流百家と呼ぶ。(ただし兵家はここには含まれていない。)
斉の威王
斉の威王は学者を好み、首都の臨淄(りんし)に数千人の学者を住まわせて自由に討論させ、稷下の学士(しょくかのがくし)と呼ばれた。また、諸子百家が論争する様子は、百家争鳴と呼ばれた。