荘子|中国の思想家,胡蝶の夢,真人,無為自然,心斎,坐忘

荘子 そうし BC4世紀頃

荘子(荘周そうしゅう)。姓は荘、名は周、字は子休という。出生不詳だがBC4世紀ごろ、孟子と時期に宋の国の蒙(もう)(現在の河南省)で活躍したと考えられている。蒙の漆園の番人をしていた。ちなみに彼の友人である恵施も宋の国を出身とする。楚の威王が彼に宰相の地位を与えようとしたが固辞し、悠々自適の自由人としての生活を選んだ。荘子はわらじ作りの内職で生計を立て、極貧生活を送ったとされている。貧困の中で思索を続け、その生涯を終えた。

荘子の思想

荘子の思想は、老子の「道」と「無為自然」を受け継ぐが、老子に比べて荘子は政治的現実のを超えた超俗的、宗教的関心が強かった。また、人間とは何か、宇宙の根本は何か、生と死とは何か、という根本問題に目を向けている。人生は至るところに苦悩が満ちているが、それは人問が自分のまわりに、是非・善悪・美醜・生死などの様々な対立をつくり出すためである。

認識の限界

荘子は、一種の不可知論的立場をとる。“はじめ”という概念を持てば、その瞬間に“はじめなど無い”という概念を持つ。しかし、“ない”という概念でさえ、それ自身有るわけだから、“最初から無いということも無かった”という考えが出て来る。さらに“もともと最初から内ということも無かったということも無かった”という考えが出てくる。そうすると有無の無限循環に陥ってしまい、結果、有と無のどちらが本当に“ある”のかは、誰にもわからない。世界の成り立ちは我々にはわかるよりもない。

相対主義

認識そのものがすでに不完全である以上、それに基づいて作られた価値基準もまた不確かなものである。幸福、地位、名誉・名声、富など、すべては不確かで意味のなさないものであり、まったく信用することはできない。取るに足らないものである。儒家、墨家、楊朱、公孫龍といろいろな人がいろいろなことを述べているが、それぞれの思想がそれぞれ真理だとすれば、いったいどうやって真理を決めるのか。従って、思想というもの自体不確かなものである。

言語論

言語もまた発音と意味との関係が不確かである以上、人間の錯覚であるにすぎない。人それぞれに解釈し、その使い方も曖昧である。言語など最初からまったく存在しないようなものではないか。

万物斉同論(斉物論)

万物斉同論とは、宇宙万物の根源である道の立場に立つと、人間が作為的に決めつけた是非、善悪、美醜、貴賤などの相対的な差別を超えた、万物が一体となった等しい、ありのままの絶対的な実在の世界を万物斉同の世界という。ひとつの無差別的平等の絶対の道からすれば、万物の価値は等しくまた区別もない。「道を以て之を観れば、物に貴賤なし」 。

可を可とし、不可を不可となす。道は之を行きて成り、物は之を謂いて然りとす。
悪くにか然りとするや。然るを然りとす。
悪くにか然らずとするや。然らざるを然らずとす。
物は固より然りとする所あり、物は固より可とする所あり。

世の人は、もともと一つであるはずのものを可と不可に分け、可であるものを可とし、不可であるものを不可としている。
世の人が習慣的にそうであるとすることを、そうであるとしているまでのことである。
世の人がそうではないとすることを、そうではないとしているにすぎない。
だが、先に述べた無差別の道の立場からみれば、あらゆる対立が無意味なものになる。
したがって、この立場からすれば、どのような物にも必ずそうであるとして肯定すべきところがあり、可として認められるべきところがある。

胡蝶の夢

胡蝶の夢とは、荘子の主著である『荘子』にある寓話のこと。荘子が蝶になった夢を見た。やがて目覚めるが、自分が人間で蝶の夢を見たのか、自分が蝶で人間の夢を見ているだけなのかわからない。蝶であれ人間であれ、与えられたそのままを十分に楽しんで生きればいいし、そうするしかない。万物斉同、つまり、ありのままの実在の世界では、すべては斉しい価値をもち、どちらが自分でも蝶でもよいという世界に立っている。

真人(至人、神人)(逍遙遊)

道の体現者を真人とよび、絶対的自由の境地に遊ぶ人として逍遥游(物我一体の境地)の世界で生きることを理想とする。荘子の説く理想的人間像である。
真人は、人間の勝手な差別の世界を超え、生死や老若など与えられた一切の運命を良しとし肯定して、なにものにもとらわれず、自由なものとして自然のままに生きる。
そして、あらゆるものを肯定するものをもち、愛も憎しみも出会いも別れも老いも若きも生も死もあるがままに、ありのままに、受け入れる無為自然の生き方を貫く。

無為自然

人間が分別する相対的な世界を超え、絶対的なありのまま自然の道に従い、万事を自然のままにゆだねて悠々自適に生きることを無為自然の生き方である、と説く。

心斎・坐忘

心のけがれをとり除き(心斎)、いながらにしてすべてを忘れる(坐忘)こと。無為自然の道と一体となる。心の物忌みで汚れを取り去って清く生きることが求められる。

  • 心斎:一切の分別や判断を捨て去り、虚心坦懐にして道と一体となること
  • 坐忘:身体、五感を忘れ去り、宇宙や自然のはたらきに身をまかせること

『荘子』の概要

『荘子』は内篇七、外篇十五、雑篇十一の計三十三篇の体裁を穫る。これは読ん世紀の普の郭象が定めたスタイルで現存する『荘子』はこのスタイルの適すtおである。内篇は荘子の自著に近いと考えられているが、残りの外篇と雑篇は後の人間が加筆したものと考えられている。特に内篇の中で逍遥遊篇と斉物論篇が荘子自身の思想の中心である、というのが従来の通説である。

『荘子』1

人間の形をして生まれてきたことにさえ、喜ぶものだ。人間の形は年齢とともに老幼生死と変化してきわまりない。そうだとすれば、人間として生きる楽しみも、数えることができないくらい無限のものだ。だから、聖人はまさにいっそいの物を包み込み、境地に遊び、すべてをそのまま肯定する。…万物の根源であり、すべての変化のもとである自然の道こそ、万人の従う道である。

『荘子』2

物は彼れに非ざるは無く(すべての物は彼れと呼びえないものはないし)、物は是れに非ざるは無し。彼れ(離れているもの)よりすれば、即ち見えざるも、自ら知れば、則ち之を知る。故に曰く、彼れは是れより出で、是れは亦彼れに因ると、彼是は方生の説なり(相対的な概念である)。
然り雖も、方び生じ方び死し、方び死し方び生ず(生死も相対的である)。方び不可にして方び可なり。方び不可にして方び可なり。是に因り非に因り、非に因り是に因る。是を以て聖人は由らずして(相対差別の立場によることなく)、之を天に照らす(相対差別を超えた立場で物を見る)。

『荘子』3

古井戸に住む蛙は「井戸の底の水をひとりじめにし、その水の中で泳ぐ楽しみは最高だよ」と言った。それを聞いた大亀が、「わしの住んでいる海は、見渡すかぎり果てしがなく、底なしに深い。どんな洪水でも、どんな日照りでも、その水の量は変わることがない」と言った。それを聞いた蛙は、ぼうぜんとして我を忘れてしまった。

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