兵家|春秋戦国時代の戦術家,兵とは詭道なり

兵家

兵家は戦略を説く学派で多くの兵法書がつくられた。戦術や戦略を研究して、一家をなした孫武・孫臏(そんぴん)・呉起らの兵法学者が現れた。また、戦国時代の七雄が抗争するなかで、政治的な外交戦略が展開された。(参考:孫子

兵法の必要性

の時代から春秋時代にかけては、馬にひかせた貴族が乗る戦車による車戦が中心だったが、戦国時代になると鉄製の兵器が大量に製造され、兵士や騎兵を中心にする野戦や包囲戦に移り、戦いの規模も拡大して、軍力も歩兵の数で表されるようになった。戦争は複雑化していき様々な要因により戦況が変わるようになる。そこで、『孫子』を書いた斉の孫臏、『呉子』を書いた楚の呉起(呉子)、『六韜』(その一篇が「虎の巻」の由来)に記された太公望・呂尚となどの軍略家があらわれ、兵家と呼ばれた。

孫子

孫子は兵家の代表的な軍略家である。春秋時代の呉の孫武と、その子孫とされる戦国時代の斉の孫臏の二人をいう。最近の調査で従来の兵法書『孫子』は孫武の著で、別に孫臏著の兵法書『斉孫子』の存在することが判明した。

孫武

孫武は出生はわかっていない。春秋時代に呉の闔閭に仕えた武将である。『孫子』の著者であると考えられている。

『孫子』

『孫子』は戦術論を超えて下記に記したように政治思想的な側面が描かれている。『孫子』は、中国や日本の兵学者に広く読まれ、武田信玄の「風林火山」は、この書の「疾きこと風の如く、徐かなること林の如く、侵掠すること火の如く、動かざること山の如し」という言葉から出ている。

  • 戦わずして敵兵を屈服させるのが最善である
  • 彼を知り己れを知れば、百戦して殆うからず
  • 利にあらざれば動かず
  • 兵とは詭道(相手の裏をかく仕業)なり

呉起

呉起(呉子)(前440頃~前381頃)は、兵法家で衛の人。孫子と並んで「孫呉」と呼ばれる。魯・魏に仕えたのち楚の宰相となり、功を立てたが、反対者に殺された。『呉子』の著者とされる。

「勢」とは、戦いの状況による勢いを読み解き、敵の虚をつく「勢」の思想に基づいている。

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