西郷隆盛|薩摩藩,天を相手にせよ。全てを天のためになせ。

西郷 隆盛 さいごう たかもり

西郷隆盛(西郷吉之助)(1828.1.23 – 1877.09.24)は、江戸末期から明治時代にかけての政治家である。薩摩藩士。下級武士として尊王攘夷運動に参加した。第一次長州征伐では、西郷隆盛は征長総督府の参謀役となったが、交渉のうえ、戦闘行為を避け長州征伐を終了させた。その一方で、薩長同盟(薩長密約)を結び、第二次長州征伐では、薩摩藩は参戦しなかった。大政奉還をおこなった徳川慶喜にたいし、軍事的圧力をかけ、徳川慶喜を新政府から排除、徳川の無血開城を成立させた。戊辰戦争では参謀を務めた。1870年参議となり廃藩置県を行った。征韓論により下野し、西南戦争で非業の死を遂げる。弟は、西郷従道である。

西郷隆盛
西郷隆盛

目次

西郷隆盛の略年

1827年 鹿児島城下加治屋町に生まれる。
1857年 将軍継嗣問題で一橋慶喜の擁立運動に加わる
1859年 井伊直弼安政の大獄から逃れるため奄美大島の龍郷村に潜伏。(第一次謫居生活)
1862年 第二次謫居生活
1868年 戊辰戦争に東征大総督府下参謀として東征軍を指揮。3月幕府方の勝海舟と会談し、江戸無血開城を決定
1871年 薩長土の三藩の兵により御親兵を編成し、廃藩置県を断行
1871年 留守政府の筆頭参議となり、学制、徴兵制、地租改正などを行う。征韓論で岩倉具視らと対立し、明治六年の政変で下野
1874年 鹿児島に私学校を設立。士族の子弟を教育
1877年 9月4日西南戦争のため、城山で負傷。別府晋介の介錯で自刃。

薩摩藩主島津斉彬に見出される

西郷隆盛は、文政10年(1827年)2月27日下級士族であった 西郷吉兵衛の長男として鹿児島城下加治屋町に生まれた。弘化元年(1844年)18歳で薩摩藩の郡方書役助(米の出来高を見積もり納めさせる役所の書記)となり、郡方奉行迫田太次右衛門の配下として出仕し、農政に関しての仕事に励んだ。薩摩藩内が「お由羅騒動」(薩摩藩主島津斉興の後継者争い)で揺れている中、大久保利通・長沼嘉兵衛・有村俊斎らと「近思録」(朱子学の入門書)の勉強会を開いて自己研磨に努めている。嘉永7年(安政元年、1854年)、薩摩藩主の島津斉彬の参勤に従い、鹿児島を出発し、江戸へ向かう。このとき、裏方としての活躍がかわれ、島津斉彬に見出されて庭方役(庭の手入れをする仕事)となった。

将軍継嗣問題と安政の大獄

江戸にいる西郷隆盛は、藩の枠組みを超えていろいろな人々と交流している。藤田東湖・戸田忠太夫などの水戸藩士の面々など多くの人物に出会った。安政4年(1857年)頃、島津斉彬から呼び出されて、将軍継嗣問題で次期の将軍を一橋(徳川)慶喜にするための擁立運動を指示される。特に越前藩士の橋本左内と連携して活動を行なった。しかし、安政5年(1858年)、江戸幕府大老の井伊直弼によって将軍継嗣が紀州藩主の徳川慶福(家茂)に決まり、江戸・京都で反対派の弾圧が始まった(安政の大獄)。
さらに、島津斉彬も病死してしまい、西郷隆盛は殉死しようとしたが思い止まって島津斉彬の意志を貫徹させることを決心する。形勢逆転を狙って挙兵論を策していたが、失敗に終わった。

月照

安政の大獄によって追われていた人物に僧の月照がいる。近衛家から月照の保護を頼まれた西郷隆盛は、薩摩藩の要路と掛け合うが拒否され、責任を感じて月照と共に入水自殺を図った。月照は死亡し、西郷隆盛は蘇生した。薩摩藩は、幕府の追及を逃れるために、西郷隆盛を死んだことにして奄美大島に生活させることを決めた。

第一次謫居生活

安政6年(1859年)1月、西郷隆盛は名前を菊池源吾とかえて奄美大島の龍郷村に潜伏した。当初は慣れない暮らしに苦心していたようである。万延元年(1860年)に龍郷村の住人の愛加那(あいかな)と結婚し、2人の子どもも授かった。文久元年(1861年)12月20日、薩摩藩から待望の召喚命令を受ける。そして、文久2年(1862年)1月14日、奄美大島を出発し、念願の政界復帰を果たした。
西郷隆盛が戻った薩摩藩内では、薩摩藩主の島津茂久(忠義)の父である島津久光の率兵上京計画(兵を率いて京都や江戸で活動しようという計画)が図られていたが、西郷隆盛は準備不足を指摘してこれに反対した。理由は、京都に何のコネクションもない島津久光がそのまま行っても、失敗に終わる可能性が高いと考えたからである。西郷隆盛と島津久光の確執がここに始まり、以降、関係が良好になることはなかった。結局、薩摩藩を挙げての上京計画は進められることとなる。

第二次謫居生活

島津久光の率兵上京に先立って先発を命じられた西郷隆盛は、村田新八と共に下関で待機することとなった。しかし、過激な浪士たちが暴発するかもしれないという情報を得たため、急遽京都・大坂方面に向かう。島津久光からの待機命令を無視したかたちとなってしまった。この行為により、西郷隆盛に再び遠島処分が下る。まず、徳之島に留め置かれたが、その後に沖永良部島(おきのえらぶ)へ向かうことを命ぜられて、ここで生活することになる。沖永良部(おきのえらぶ)は日本の最西で琉球とに接する。

西郷隆盛
西郷隆盛

牢屋暮らし

当初の牢屋暮らしは厳しいものであった。当初は広さ4畳半の牢に押し込められ、4畳半のうちの2畳は便所で、居場所は2畳しかなった。身体の大きな西郷隆盛には、横になれず、そのうちやせ細った。それを哀れんだ役人が一軒家のような牢を作り、西郷隆盛を自由にした。次第に島の住人の懇意などにより生活は平穏を取り戻していった。文久4年(元治元年、1864年)1月、西郷隆盛は許されて再復帰する。

長州征伐

復帰した西郷隆盛は上京を命ぜられた。島津久光から薩摩藩の在京兵力の指揮を任されることになり、天皇の禁裏御所の守衛に専念するように命ぜられる。
禁門の変(長州藩兵が京都まで進出し、戦争になった事件)では、薩摩藩兵を指揮して長州藩を撃退した。この激戦の中で、西郷隆盛自身も負傷している。京都に進撃した長州藩は「朝敵」(天皇の敵)となったため、第一次長州征伐が実施されることになったが、西郷隆盛は征長総督府の参謀役となり、征長軍側と長州藩側の間を上手く交渉して渡り、戦闘行為を行なわずに長州征伐を終了させた。

薩長同盟

慶応2年(1866年)、対幕姿勢を強めていた薩摩藩と長州藩の間で提携関係の構築が進む中、京都において小松帯刀と共に木戸孝允と薩長盟約(薩長同盟)が結ばれた。この薩長盟約は、第二次長州征伐が起こった際に薩摩藩側が長州藩に対して手助けする内容などが記されている。慶応3年(1867年)、四侯会議の失敗以降、将軍徳川慶喜を倒すために武力行使を志向する。12月9日、王政復古政変によって幕府が廃止されて、新政府が成立した。慶応4年(明治元年、1868年)1月、大坂に退いていた会津藩や桑名藩などが京都に攻め上り、戦争に突入した(戊辰戦争)。薩長軍は「官軍」(天皇の軍隊)としての地位を得て、勝利する。

薩長同盟
薩長同盟

岩山糸との結婚

小松帯刀の媒酌で藩士の娘の岩山糸と結婚をし、3人の子どもをもうけた。

西郷隆盛
西郷隆盛

鹿児島藩政から明治政府へ

戊辰戦争がほぼ終結すると、西郷隆盛は鹿児島に帰って、藩政改革を担う。しかし、中央政府は西郷隆盛の動向が日本政治を左右するとして、西郷隆盛の明治政府入りを画策した。岩倉具視や大久保利通の招きに応じた西郷隆盛は、廃藩置県の断行に賛成し、岩倉使節団外遊中の留守政府を担うことになった。

西郷隆盛
西郷隆盛

明治六年政変

西郷隆盛は、明治6年(1873年)頃から朝鮮問題に関心を抱くようになった。朝鮮問題とは、徳川氏から天皇の政府に代わったことを日本が朝鮮に通告したが、朝鮮側がこれを認めなかった問題である。西郷隆盛は、朝鮮使節に志願し、自らが話をつけてくることで朝鮮問題を解決することを提案した。一方で、板垣退助宛ての書簡では、朝鮮に行くことできっと自分は殺されるだろうから、それを口実に日本は朝鮮へ出兵するべきだと記されている。いずれにせよ、西郷隆盛は朝鮮使節に志願して、留守政府内では一応決定したが、正式決定は岩倉具視が外遊から帰国してからということになった。
これに反対の意思を示したのが、木戸孝允大久保利通であった。特に大久保利通は、自分の息子たちに遺書まで書いて西郷隆盛に反対の意思を示す決意を固めていた。こうして、西郷隆盛と大久保利通は対立することになり、最終的に朝鮮使節は却下された。西郷隆盛は、これに憤慨して明治政府を去り、鹿児島へ帰ることになった。

西南戦争へ

鹿児島に戻った西郷隆盛は、私学校を創設し、自らは隠遁生活に入った。各地で士族反乱が起こる中で、明治10年(1877年)、政府が鹿児島の火薬庫から武器・火薬を取り上げたことに憤慨した私学校生徒が暴発した。進退窮まった西郷隆盛は、暴発した者たちを見捨てずに、自身を彼らに委ねる決意をする。私学校生徒らを中心とした薩摩軍が編成されたが、名目上は総指揮官であったものの、実際の戦闘指揮は側近の篠原国幹や桐野利秋らが執っていた。だが、戦局は薩摩軍有利には運ばず、西郷隆盛は9月24日に鹿児島の城山に追い込まれて死去した。

参考文献

井上清『西郷隆盛(上)(下)』(中公新書、1970年)
落合弘樹『西郷隆盛と士族』(吉川弘文館、2005年。
落合弘樹『西南戦争と西郷隆盛』(吉川弘文館、2013年)
坂野潤治『西郷隆盛と明治維新』(講談社現代新書、2013年)
家近良樹『西郷隆盛』(ミネルヴァ書房、2017年)


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