西郷従道 さいごう じゅうどう 天保14年5月4日(1843.6.1) – 明治35年(1902.07.18.)
西郷従道は、明治時代の政治家・軍人。西郷隆盛の弟として天保14年(1843年)5月14日、鹿児島城下の下加治屋町に生まれる。安政期から薩摩藩の茶坊主であったが、文久期に還俗した。
寺田屋事件による帰国謹慎
安政期には同志と共に井伊直弼らを襲撃するために突出(脱藩)して挙兵する計画にも加わっていた。文久2年(1862年)、有馬新七らの挙兵計画に参加しようとしたが、「寺田屋事件」にて帰国謹慎を命ぜられる。
薩英戦争・禁門の変・鳥羽伏見の戦いへの参加
文久3年(1863年)、薩英戦争(生麦事件で薩摩藩士にイギリス人を殺された報復としてイギリス軍艦が鹿児島に来航し、薩摩藩と戦闘する)に参戦する。元治元年(1864年)には長州藩が京都に進撃してきて勃発した禁門の変にも参戦している。
慶応4年(明治元年、1868年)、戊辰戦争に従軍する。戊辰戦争の初戦である「鳥羽伏見の戦い」で西郷従道は重傷を負った。
ヨーロッパ諸国への視察と警察制度の確立
明治2年(1869年)、山県有朋と共にヨーロッパ諸国を視察して各国の兵制を調査した。帰国後は、警察制度の確立にも尽力した。
台湾出兵
明治6年(1873年)、「明治六年政変」(西郷隆盛の朝鮮派遣を巡り政府が大分裂した政治事件)にて兄である西郷隆盛が政府を去っていったが、西郷従道は後を追わなかった。明治7年(1874年)には、台湾出兵を強行させた。
西南戦争
明治9年(1876年)、フィラデルフィア万国博覧会へ出席のために渡米する。アメリカからの帰国直後の明治10年(1877年)、西南戦争が勃発する。西郷従道は従軍せずに、山県有朋の代役として陸軍卿代理を務めて東京で動静を見守っていた。
清国へ
明治11年(1878年)、参議となり閣議に列席する。明治17年(1884年)、華族令にて伯爵に列せられた。明治18年(1885年)、甲申事変(朝鮮・漢城にて親日派の独立党が親清派の事大党から政権を奪取しようとしたクーデター事件)の処理のために伊藤博文に随行して清国へ赴き、李鴻章と会談している。
海軍大臣へ
第一次伊藤博文内閣では、陸軍中将のまま海軍大臣となった。明治24年(1891年)5月、内務大臣在任中に大津事件(来日中のロシア皇太子が襲撃された事件)が発生し、引責辞任している。明治25年(1892年)、品川弥二郎らと共に国民協会(藩閥政府擁護を唱える政党)を設立。その10年後、明治35年(1902年)、胃癌により死去した。