洋学|江戸時代末期「東洋道徳、西洋芸術」

洋学

洋学とは、江戸時代の末期から明治時代の初期に日本に紹介された西洋学問の総称である。数学、物理学、化学、医学などの諸科学が導入された。蘭学がオランダの学問という響きを持つのに対して、洋学はイギリス・ドイツ・フランスの学問を含んだより広い概念を示す。
江戸時代の後半の日本は、享保の改革での「漢訳洋書の輸入制限の緩和」をきっかけとしてオランダ医学をはじめとするヨーロッパの学問・思想が徐々に入ってくるようになる。しだいにイギリス・ドイツ・フランスによる欧米列強の開国圧力が強くなるとともに、知識人たちのヨーロッパの学問・思想への関心が高まり、蘭学が発展して洋学に発展した。
歴史的には、シーボルトが来日したことにより、洋学の学問的水準は高まり、幕府も洋学所をおこし、殖産興業策をヨーロッパの学問に求めた。高野長英渡辺崋山佐久間象山らは、洋学の知識を通して現状打開を説いた。

目次

洋学の略年

1793 渡辺崋山が生まれる。
1804 高野長英が生まれる。
1809 このころ渡辺崋山が画家修行に励む。
1811 佐久間象山が生まれる。
1820 高野長英、医術・蘭学を学ぶ。
1830 吉田松陰が生まれる。
1832 渡辺崋山が蘭学研究開始。
1838 渡辺崋山『憤機論』を、高野長英 『戊戌夢物語』を著す。
1841 渡辺崋山、自殺。
1850 高野長英、自殺。
1851 佐久間象山が砲術・兵学の塾を開く。
1853 佐久間象山吉田松陰に海外渡航をすすめる。
1859 吉田松陰が処刑される。
1864 佐久間象山が暗殺される。

前野良沢・杉田玄白

洋学を学んで日本医学の近代化の礎を築いた前野良沢、杉田玄白がいる。前野良沢らが取り組んだ医学用語の翻訳は,西洋医学に対する専門知識が必要であった。当時は、中国から伝わった漢方の知識が一般的であったため、翻訳に大変苦心し、『解体新書』を完成させた。

杉田玄白の墓
杉田玄白の墓

渡辺崋山・高野長英

シーボルトが来日し、鳴滝塾を開いたが、幕末期の日本を担うことになる若者たちが、こぞって洋学の知識を学んだが、その塾生のひとりである。渡辺崋山高野長英は、そうした若者の一人である。高野長英渡辺崋山は、江戸で尚歯会を開き、洋学研究を行い、西洋医学だけでなく、世界情勢に関する知識も学んだ。モリソン号事件に対する幕府の対応を批判したことで、蛮社の獄にあう。

佐久間象山

佐久間象山は洋学は儒学・陽明学をはじめとする様々な日本の思想を学んだ上で、洋学も学んだ。アヘン戦争で清が敗れたことに衝撃を受け、欧米列強の実力を高く評価した、当時では数少ない学者の一人であった。しかし、西洋の伝統のない日本では、西洋文明を直接受け入れることは拒否し、日本人の精神は遵守しながらも西洋科学を取り入れる、「東洋道徳、西洋芸術」を唱えた。これは、幕末から明治維新にかけて大きな影響を及ぼした。また、彼のもとで、明治維新に向けて日本を動かした吉田松陰をはじめとする多くの者が学び、幕末期に大きな影響を与えた。

佐久間象山
佐久間象山

吉田松陰

吉田松陰は、佐久間象山の弟子の一人で、松下村塾を主宰した人物である。陽明学を学び、孟子の思想に心酔する一方で、ペリーの来航を機に欧米列強に対する関心を強め、これからの日本はどうあるべきかという問題に取リ組んだ。彼が説いた一君万民論は、武家社会が到来する以前の天皇に対する尊崇に基づいて、天皇を主君とし万民を国民としてまとめようとしたものである。万民に対して天皇を中心とする国の安全と永続のために身も心もささげる誠の心を求めようとした。誠の心は、生死をかけた行動を呼びおこす原点として位置づけられ、自らもそれを実践した松陰の言葉を塾生たちの多くは熱心に学び取っていった。

吉田松陰
吉田松陰

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