高野長英|江戸時代末期の洋学者・医学者

高野長英 たかのちょうえい

高野長英(1804~50)は江戸時代末期の洋学者。長崎でシーボルトに医学・洋学を学び、江戸で開業。のちに渡辺崋山らと西洋研究グループ尚歯会(蛮社)を設立した。
陸奥国(岩手県)水沢で生まれ、仙台藩水沢領主の侍医であった叔父の養子となり、16歳の時に江戸で蘭学を学び、21歳の時に長崎でシーボルトから蘭学を学んだ。シーボルト事件の後、行方不明となるが26歳の時に江戸で医師として開業し、日本初の生理学書『医原枢要』を著す。このころ渡辺崋山と出会い、尚歯会(蛮社)を結成し、洋学研究に励んだ。1838年、34歳の時、幕府がイギリス船(実はアメリカ船)モリソン号を砲撃するという決定を知り、イギリスの強さと危険性を警告した『戊戌夢物語』を書いて鎖国政策を非難した。このことがきっかけで、蛮社の獄(1839年の洋学者弾圧事件。蛮社とは尚歯会のこと)で投獄された。一度は脱獄し四国・九州を転々として医療と研究を続けるが江戸で役人に追われ自害した。

目次

尚歯会

高野長英が渡辺崋山とともに設立した洋学研究グループで、幕府からは朱子学至上主義の観点から南蛮の学問を学ぶ奴らという意味で蛮社と呼ばれた。日本人漂流民を助けて帰国させようとしたアメリカ合衆国船モリソン号に対して、幕府が異国船打払令を根拠に退したことについて、博愛主義に反するとして鎖国政策を堅持する幕府を批判した。これによって蛮社の獄で逮捕されることになる。

シーボルト事件

オランダ商館付医師として長崎に来ていたドイツ人医師シーボルトが、1828年に任期を終えて帰国する際に、もち帰ろうとした日本の文物の中に国外もち出しが禁じられていた日本地図を所持していたことが発覚した事件のこと。この事件をきっかけにして、幕府の洋学者たちに対する取り締まりや弾圧が強まることになった。

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