奈良仏教|南都六宗の研究と東大寺の建立,鑑真,行基

奈良仏教

奈良仏教は、政治と結びつき、朝廷か鎮護国家の役割を担うことを期待されていた。争乱や天然痘の流行などから仏の加護を求める役割を担うものであった。特に朝廷の許可を得て出家した僧(官僧)によって、仏教の教理の研究やさまざまな儀式が行われた。宗教的な実践としては呪術的な祈祷が中心であり、遣唐使によって唐から伝えられた学問としての仏教(南都六宗)が奈良の各寺院で流行した。

目次

南都六宗

奈良時代の仏教の六学派。三論宗(さんろん)、成実宗(じようじつ)・法相宗(ほつそう)・俱舍宗(くしや)・華厳宗(けごん)・律宗(りつ)の六学はである。現在の宗派とは異なり、仏教の教義を研究する学派というニュアンスで衆教的な実践には及ばなかった。対立関係も少なく東大寺を中心にお互いに切磋琢磨し、学び合っていた。なお、南都とは、奈良のことで、北都(京都)と対をなす言葉である。

東大寺と授戒制度

聖武天皇のころ(724〜749年)には東大寺に盧舎那仏像をかたどった大仏が建立され、東大寺を総国分寺とする国分寺組織が整備された。仏教の普及にともない、遣唐使を通じて中国やインドから高層を招き授戒制度を整えようとする動きが強まった。この頃、唐から鑑真を招き東大寺に戒壇院を設置し、授戒制度が確立された。

鎮護国家

鎮護国家とは、仏教を盛んにして、仏教の力によって国家の安泰をはかること。奈良時代の仏教は政治色が強い。8世紀前半、聖武天皇(在位724〜749)が、全国に国分寺・国分尼寺をつくり、奈良の都に東大寺大仏(盧舎那仏)を連立することで争乱を抑え、天然痘流行からの救いを願い、また国家の安定を祈願した。

私度僧

朝廷の許可を得て出家した僧(官僧)にたいし、私度僧とは、官の許しを得ず、自分で出家を宣言した僧侶のことである。

社会的活動

仏教をはじめ、宗教はその組織や学術的研究をもって、社会活動を行いながら普及されることが多い。奈良時代の仏教は、民衆の救済に直接結びつくものには発展しなかったが、行基の師匠でもあり、入唐して玄奘の教えを受けた道昭は、鎮護国家としての仏教に収まらず、井戸の掘削作業や橋を架けるなどの社会活動を行った。

鑑真

鑑真(688-763)は、中国唐代の高僧であるが、日本の奈良仏教の発展に貢献した。当時中国に留学中の日本の僧栄叡・普照の強い要請で、周囲の反対を押し切り渡日を決意した。当時、日本に来るのは非常に困難で、5回渡航に失敗し、失明するに至ったが、ついに12年目の753年に弟子20命人と来日を果たした。日本についてからは、律宗(戒律)を伝え、唐招提寺を建てた。戒律、天台宗の経典をもたらしただけでなく、中国の書や彫刻の紹介、医薬の知識の導入など、日本文化への功績は計り知れない。

行基

行基(668~749)は奈良時代に民衆のあいだで布教に尽力した僧として有名である。諸国を遊説して布教し、道や橋だけにとどまらず、貧民のために布施屋(無料宿泊所)を連てるなど、社会活動を積極的に実施し、慈悲の教えを広く伝えた。人びとから行基菩薩と尊称しされ、朝廷の許可なく出家して僧を自称した私度僧をつれていた。当初は弾圧されたが、のちに聖武天皇の尊崇を受けて、東大寺大仏の建立に参加するに至る。