鑑真|奈良仏教,授戒制度の導入,唐招提寺

鑑真

鑑真は、中国唐代の僧で、日本への帰化僧。日本の律宗の開祖。若いころから律宗や天台宗を学び、信望の厚い僧であった。奈良時代、当時、仏教が普及するにつれ、より深い研究と授戒制度が必要となってきた。当時中国に留学中の日本の僧である栄叡・普照の要請で、鑑真に来日を願ったところ、その求めに応じて彼は日本に渡ることを決意した。
当時の渡航は環境の厳しいものであり、失明にもなりながら6度目の渡航で来日を果たした。その後、759年に唐招提寺を建立した。なお、仏教以外にも医学.薬学、中国の書、彫刻の技法など彼の残した功績は多く、日本文化に大きく貢献した。

鑑真

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目次

受戒伝律制度の必要性

平城京遷都以後、病気や騒乱が相次ぎ、また鎮護国家を背景に寺院を建設した負担は民衆に重税となって現れた。また、僧侶には納税義務が免除されることから重税に苦しむ庶民は僧にならざるをえなかった。納税者が減少するとともに、怪しげな説法をする僧侶やお経ひとつ読めない僧侶があふれるようになった。そこで、律令国家の体制すら揺らいでいた朝廷は733年、僧を国家の許可制とするため、「受戒伝律」制度の確立を模索する。政府は、栄叡と普照の二人を、唐に派遣することを決定。二人は9年間を費やし、当時、唐で名高い鑑真に、その高弟の渡航を懇願した。

鑑真への渡航依頼

栄叡と普照は熱意をもって鑑真に懇願したが、鑑真の高弟は当時危険であった航海を嫌がり、志願する者はいなかった。鑑真は、仏法の為に命を惜しむ必要があるまい、と自らが日本に渡航すると宣言する。仏教が始まってまもない日本に仏教を伝えることは深い信仰の証でもあった。

鑑真の失明

『東征伝』には日本への鑑真の苦しい渡航が記されている。鑑真は渡航試みるが、それを惜しむ弟子の密告で1回目は56歳のときであるが密告に終わった、2回目56歳の時、強風と高波に見舞われ難破、3回目と4回目は57歳のときであったが、これも密告に阻まれる。5回目では暴風雨で船が流され一週間漂流、海南島に漂着し、当地に1年間の滞在を余儀なくされる。過酷な炎天下の下で鑑真は失明するに至る。この間民衆に仏教を広めたり、民衆への施しを続けていた。悲運が続いたが、遣唐使船の入唐の知らせが入り、6度目の渡航で船団は風にあうものの、奇跡的に日本の薩摩国に入港した。

来日

754年(天平勝宝6)、平城京に入った鑑真は、東大寺に戒壇院を設け、授成制度を整えた。聖武上皇はじめ皇族・貴族ら440余人に授戒を行う。以降、受戒で認められた者以外は僧侶になることは出来なくなった。

鑑真

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鑑真が教えた戒律

戒律とは仏教徒が守るべき規律で、人を殺してはいけない、盗みをしてはいけない、嘘をついてはいけない、性行為をしてはいけない、など250項目にわたる。これまでの僧侶には教えられなかったことで、日本の僧侶の一部は鑑真に不満をもったと考えられる。

大僧都

誰もが自由に出家する時代は終わり、税金逃れのための出家はなくなった。これは朝廷は鑑真を高く評価し、仏教の最高指導者を意味する大僧都に任命された。しかし、そもそも鑑真は、東大寺にて授成制度を整えたが、鑑真の目的は僧侶を減らすことではなく、仏教を広めることであった。鑑真は東大寺に道場をつくり優れた僧侶を育成した。一方、税金が免除された僧侶が増えることは、朝廷にとっては税の減収を意味し、鑑真を警戒するようになり、758年、8月、大僧都を解任されることになる。大僧都についてわずか2年であった。

唐招提寺

10年にも及ぶ困難な渡航をしたにも関わらず4年程度で東大寺から追い出されることになった。平城京の一角に移り住むこととなる。その1年後、759年、律宗の総本山となる唐招提寺(奈良県奈良市)を創建した。建立には朝廷の力を借りず、様々なひとの寄付や中古建材の贈与によって建てられ、最低限の建物だけであった。唐招提寺とは身分に分け隔て無く修行を行う場所であった。大和上の尊号が与えられ、763年に没した。

失明説

6度に渡る渡航で失明した、というのが通説であるが、鑑真が来日した年、自身が書いたと考えられる書が残されており、来日当初は完全に失明はしていなかったとする。

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