中国思想
中国思想は主に春秋・戦国時代で活躍した思想家によって築かれたといえる。このような人物たちを総称して、諸子百家(子は尊称で先生を意味し、家は学派を意味する)と呼ばれる。代表的な学派としては、儒家、道家、墨家、法家、兵家、名家などがある。古代から綿々と受け継がれてきた中国思想は、社会制度や道徳観念、そして個人の生き方に関する豊かな議論を数多く生み出してきた。
代表的な諸子百家
学派 | 代表人物 | 主な概念 |
---|---|---|
儒家 | 孔子 | 仁・礼・徳知主義 |
儒家 | 孟子 | 性善説・王道政治・四端・四徳 |
儒家 | 荀子 | 性悪説・礼治主義 |
道家 | 老子 | 道・無為自然・柔弱謙下 |
道家 | 荘子 | 万物斉同・心斎坐忘 |
法家 | 韓非子 | 法治主義 |
墨家 | 墨子 | 兼愛・非攻 |
兵家 | 孫子・呉子 | 兵法 |
名家 | 恵施 | 弁論(詭弁) |
農家 | 許行 | 国民皆農 |
縦横家 | 蘇秦(そしん) | 合従連衡 |
陰陽家 | 鄒衍 | 陰陽五行説 |
中国思想の略年
前2000ごろ 夏王朝時代。主に青銅器が使用されていた。
前1600ごろ 殷王朝時代。甲骨文字の使用されていた。
前11世紀 周王朝が華北統一、礼政一致の封建制度体制を築く。
前770年 春秋時代(〜前403)春秋の五覇。
前479年 孔子死去。
前403年 戦国時代(〜前221)戦国の七雄
前4世紀 荘子死去。
前390ごろ 墨子死去。
前359 秦の商鞅(法家)の政治改革。
前289ごろ 孟子死去。
前235ごろ 荀子死去。
前233 韓非子死去。
前221 秦王政が中国統一し、始皇帝と称す。
前91ごろ 司馬遷『史記』を著す。
中国思想発展の歴史背景
中国思想の発展は、中国大陸の歴史と密接な関係にある。奇しくも、中国の戦争が続く乱世の時代に中国思想は開花させる。中国では、黄河文明が紀元前4000〜前3000年ごろから黄河の中、下流域の黄土地帯におこった。その後、殷が1600年ごろ成立し、前1100年ごろには殷周王朝が成立した。そして、周は血縁関係を基盤とした制度により国家体制を維持していたが、前8世紀ごろから封建制度が崩壊し始めた結果、国力が衰え、有力な諸侯が王を名乗って覇を争う乱世となった。(前3世紀後半まで)。この乱世は春秋・戦国時代呼ばれる。中国大陸の各地に群雄割拠(ぐんゆうかっきょ)し、秦の始皇帝が統一するために各国が対立し、戦争も続いた。悲しくも、実力本位の乱世が思想家達の活躍の場を提供した。為政者たちはいかにして国家を統一し、国力を強化し、社会を豊かにさせるかに策を講じるようになる。優秀な学者や政策官僚が必要とするようになり、自由な思想活動が活発になり、数多くの思想や政策を説く人々が現れた。
中国思想家の目的
中国思想の多くの思想家は、政策参謀という特色が強く、この点で形而上学のような西洋哲学と性質を異にする。従い、著名な思想家は政治闘争の中で殺害されたり、あるいは殺害をしたり、追い出されて僻地に追いやられたり、といった最後を向かえることが多い。
儒家
儒家思想の祖といわれる孔子は、周の封建社会を理想とし、社会秩序の回復と平和な社会実現を念願した。人間関係の内面的あリ方としての「仁」と外面的あり方としての「礼」を重んじ、政治的には徳治主義を主張した。その後を受け継いだ孟子は、性善説を唱え人間が本来もっている善の心を育むことを主張した。彼は孔子の思想を発展させて、仁義に基づく君子による政治(王道政治)を主張して、儒家の正統的な流れをつくった。これに対し荀子は 性悪説を唱えて礼を重んじ外的教化による礼治主義を説いた。儒家思想は、漢代に官学化されて官吏養成の必修となり、宋代には朱子を祖とする朱子学、明代には王陽明による陽明学が成立した。
道家
道家思想(老荘思想)は、儒家の道徳主義的な傾向を批判して社会の平和と人類の幸福が自我を超えて自然の道に従うこと(無為自然)によって求められる思想である。道家の思想は老子や荘子によって理論化され、人為的な社会規範を超えて「道」と呼ばれる根源的な原理に帰る姿勢を強調した。特に老子は『道徳経』の中で、人間社会における権力や欲望を相対化する発想を打ち出し、無為自然の境地こそが調和に至る道であると説いた。荘子はその観点をさらに発展させ、人間の認識や価値判断が相対的であることを示しつつ、自然との合一をめざす自由な生き方を示唆した。こうした思想は統治の場から個人の生き方まで幅広い領域に波及し、後代の芸術や文学、さらには医療や養生法に至るまで多大な影響を与えた。儒家と道家の思想は表裏となって中国人の思想を形成している。
法家・墨家
荀子の影響を受けた韓非子が法と刑罰による法治主義を唱え、儒家思想を近親の重視に偏った別愛であると批判した墨子が万人平等の兼愛や非戦論(非攻説)を説いた。
漢代以降の儒学と仏教の受容
漢帝国が樹立されると、皇帝の権威を補強するために儒家が官学とされ、国家のイデオロギーを支える柱となった。その後、後漢末期にはインドから仏教が伝来し、伝統的な中国の世界観と異なる輪廻や空の思想が広まっていく。魏晋南北朝から隋・唐時代にかけては、仏教が急速に社会へ浸透し、道家や道家との相互作用を経て中国独自の仏教文化が形成された。特に禅宗などは、在来の中国思想との融合が著しく、新たな精神文化を開花させる要因となった。
宋明理学の展開
宋代に入ると、周敦頤や程顥・程頤、朱熹などの思想家が「理」を中心概念とする理学を確立し、世界や人間を形而上学的に捉える体系が整えられた。儒家伝統に仏教や道家の要素が組み合わさったこの新しい学問は、深い形而上学と実践的倫理を融合させ、明代の王陽明に至っては「知行合一」の概念を提唱するなど、多角的な議論が行われた。これらの流れは科挙制度と結びつくことで官吏の必須教養ともなり、広範囲にわたる社会層に学問的基盤を提供したのである。
影響と継承
強固な国家体制を背景としながら成長した中国思想は、周辺地域を含めた東アジア全域の文化に大きな影響を与えた。日本や朝鮮半島、ベトナムなどでは、儒教的な家族倫理や政治理念が制度や習俗に深く根付いた。さらに近代以降、西洋思想との接触を通じて中国思想は新たな解釈を迫られ、改革派や保守派などが激しく議論を交わす舞台となった。近年ではグローバルな視点から歴史的意義が再評価され、多様な視座での研究が進んでいる。