『代表的日本人』内村鑑三

『代表的日本人』(Representative Men of Japan) (内村鑑三)

1894年『Japan and the Japanese』出版。その後、日清戦争、日露戦争を経て『Representative Men of Japan』(『代表的日本人』)という名で改訂された。1899年新渡戸稲造『武士道』、1906年岡倉天心『茶の本』の影響を受け、海外に向け、日本の道徳や宗教を示した英文の著作である。またラルフ・ウォルドー・エマソンがプラトンやゲーテなどの6人を選んだ『代表的人間像(Representative Men)』(1850年)を参考にして書かれており、内村鑑三は、日本の中から代表的な日本人として西郷隆盛、上杉鷹山、二宮尊徳、中江藤樹日蓮の5人を選んだ。

代表的日本人 内村鑑三

代表的日本人 内村鑑三

5人の代表的日本人

西郷隆盛(1828~1877)
上杉鷹山(1751~1822)
二宮尊徳(1787~1856)
中江藤樹(1608~1856)
日蓮(1222~1282)

何人もの藤樹が私どもの教師であり、何人もの鷹山が私どもの封建領主であり、何人もの尊徳が私どもの農業指導者であり、また何人もの西郷が私どもの政治家でありました。その人々により、召されてナザレの神の人の足元にひれ伏す前の私が、形作られていたのであります。(『代表的日本人』内村鑑三

西郷隆盛(1828~1877)

江戸城の無血開城に成功し、明治維新に貢献した薩摩藩士である。西郷隆盛は同時代の人物だったが、聖書に出てくる聖人のように書き表している。

静寂な杉林の中で「静かなる細い声」が自国と世界のために豊かな結果をもたらす使命を帯びて西郷の地上に遣わせられたことを、しきり囁くことがあったのであります。そのような「天」の声の訪れがなかったなら、どうして西郷の文章や会話のなかであれほど頻りに「天」のことが語られたのでありましょうか。(『代表的日本人』内村鑑三

「天」と、その法と、その機会とを信じた西郷は、また自己自身をも信じる人でありました。「天」を信じることは、常に自己自身を信じることを意味するからです。(『代表的日本人』内村鑑三

西郷隆盛を最後は無欲で控えめ、常になにかを待つような男のように書いた
西郷は人の平穏な暮らしを、決してかき乱そうとはしませんでした。ひとの家を訪問することはよくありましたが、中の方へ声をかけようとはせず、その入口に立ったままで、だれかが偶然出て来て、自分を見つけてくれるまで待っているのでした。(『代表的日本人』内村鑑三

西郷は口論を嫌ったので、できるだけ、それを避けていました。あるとき宮中の宴会に招かれ、いつもの平服で現れました。退出しようとしましたが、入り口で脱いだ下駄が見つかりませんでした。そのことでだれにも迷惑をかけたくなかったので、はだしのまま、しかも小雨のなかをあるき出しました。城門に差し掛かると、門衛に呼び止められ身分を尋ねられました。普段着のまま現れたので怪しい人物とされたのでした。「西郷大将」と答えられました。しかし、門衛はその言葉を信用せず門の通過を許しません。そのため、雨の中をその場に立ち尽くしたまま、誰かが自分のことを門衛に証明してくれる者が出現するのを待っていました。(『代表的日本人』内村鑑三

しかし、ただ待っているだけではない。内村鑑三西郷隆盛の次の言葉を引用する。

機会には二種ある。求めず訪れる機会と我々の作る機会である。世間で普通にいう機会は前者である。しかし、真の機会は時勢に応じ理にかなって我々の行動するときに訪れるものである。大事なときには機会は我々が作り出さなければならない。(『代表的日本人』内村鑑三)

「強い人は、弱い人が相手でないときもつとも強い」のです。西郷の強さの奥には、ずいぶん女性的な優しさがありました。(『代表的日本人』内村鑑三)

「文明とは正義のひろく行はれることである、豪壮な邸宅、衣服の華美、外観の壮麗ではない」これが西郷の文明の定義であります。そのとき以来、西郷のいふ意味での文明は、ほとんど進歩をみせなかつたのではないでせうか。(『代表的日本人』内村鑑三)

上杉鷹山(1751~1822)

上杉鷹山は、宝暦元年(1751年)7月20日、日向国の高鍋藩主「秋月種美」の次男として、江戸で生まれた。母の「春姫」は、1760年に米沢藩主の上杉重定の養子となる。1767年には、弱冠17歳で九代目米沢藩主となった。当時、米沢藩は巨額な負債を抱えており、農民は貧困に苦しんでいた。火鉢の中のいまにも消えようとした炭に、再び火を灯すように荒れ果てた農地と民をもう一度よみがえらせる改革に取り組んだ。

藩主の地位についてから二年後、鷹山ははじめて自領の米沢に足を踏み入れました。それは晩秋のことで、ただでさえ悲哀の立ち込める状態であるところへ、「自然」がさらにもの悲しさを添えていました。行列が、荒れ果てた、だれ顧みるものもないさびれた村を、ひとつまたひとつ通るたびに、目の前に展開する光景を見て、多感な年若き藩主の心は深い衝撃を受けました。(『代表的日本人』内村鑑三)

さらに内村鑑三は、大地と民を大切にした上杉鷹山に東洋思想の美徳を見出した。

東洋思想の一つの美点は、経済と道徳とを分けない考へ方であります。東洋の思想家達は、富は常に徳の結果であり、両者は木と実との相互の関係と同じであります。木によく肥料をほどこすならば、労せずして確実に結果は実りましょう。(『代表的日本人』内村鑑三)

特に鷹山は「自己に天から託された民」を大名も農夫もともに従わなければならない、「人の道」というものがあり、権力者にも道徳的な行動をとるように求めた。決して自分の自由にしてはならず、そうした道徳をもてば、自然と経済も向上し、その結果、米沢藩全体が満たされるとした。(『代表的日本人』内村鑑三)

鷹山の産業改革の全体を通じて、特に優れている点は、産業改革の目的の中心に、家臣を有徳な人間に育てる事を置いたところです。富を得るのは、それによって皆「礼節を知る人」になるためでした。(『代表的日本人』内村鑑三)

二宮尊徳(1751~1822)

二宮尊徳は、相模国の栢山村(現在の神奈川県小田原市)に、百姓の長男として生まれた。少年時代、南関東をおそった暴風で、村の近くを流れる川の堤が決壊し、青果と田畑が流され、瞬く間に家は没落した。1800年に父、1802年に母が死去。そうした状況下で、貧困の中から田畑を耕し草鞋を作り、 再び、家を再興することに成功した。

伯父は、自分には何の役にも立たず、若者自身にも実際に役立つとは思はれない勉強のために、貴重な灯油を使ふとは何事か、とこつぴどく叱りました。尊徳は、伯父の怒るのは尤もと考へて、自分の油で明りを燃やせる様になるまで、勉強を諦めました。

尊徳の、その後の改革に対する考へは全て、「自然」は、その法に従ふ者には豊かに報ひる、といふ簡単な理に基づいてゐたのであります。(『代表的日本人』内村鑑三)

「自然」と歩みを共にする人は急ぎません。一時しのぎのために、計画を立て仕事をする様な事もありません。いはば「自然」の流れの中に自分を置き、その流れを助けたり強めたりするのです。それにより、自らも助けられ、前方に進められるのです。(『代表的日本人』内村鑑三)

そのことが評判となり小田原に出て、荒れ果てた農村を立て直す公務を命じられる。自分を捨て、再興した家もなにもかも捨てて、無私となり民のための新しいこの仕事に望んだ。(『代表的日本人』内村鑑三)

公の仕事に着手したからには、私事は少しも顧みてはいけません。「自分の家を投げ出してはじめて千軒の家を救うことができる。」尊徳は自らに言い聞かせました。自分の大切にしてきた望みを犠牲にすることにつき、妻の同意を得、「先祖の墓前では声を出して」決意を告げました。家を処分し、別世界に旅立つ身のように「背後の舟を焼き払って」故郷のむらを後にし、主君と住民にあえて約束をした仕事に望みました。(『代表的日本人』内村鑑三)

さらに二宮尊徳のリーダーとしての器に内村鑑三は注目する。二宮尊徳は仕事の優劣や上下関係を徹底的に壊していき、下とされている仕事もしっかり評価する。そして、もっとも誠実である人にこそ高い報酬と栄誉を与えた。

労働者の中に年老いて一人前の仕事はほとんどでない別の男がいました。この男は終始切り株を取り除く仕事をしていました。その作業は骨の折れる仕事であるうえ、見栄えもしませんでした。男は自ら選んだ役に甘んじて他人の休んでいる間も働いていました。「根っこ掘り」といわれ、大して注目も引きませんでした。ところが我が指導者の目はその男に止まっていました。ある賃金支払日のこと、いつものように、労働者一人一人、その成績と働き分に応じて報酬が与えられました。その中で最も高い栄誉と報酬をえる者として呼び上げられた人こそ、他でもない「根っこ掘り」の男であったのです。(『代表的日本人』内村鑑三)

中江藤樹(1608~1856)

内村鑑三は“中江藤樹”を村の先生として紹介する。内村鑑三は性善説に立ち、人間は生まれながらにして、君子として、あるいは紳士としての性質をもっている。これを教育によって、その性質を育て“真の人間”を作っていくと考えた。これは“知識のないものに、知識を与える”という近代教育とはまた違ったものあり、中江藤樹をもって説明していく。

学校もあり教師もいたが、それは諸君の大いなる西洋にみられ、今日我が国でも模倣しているような学校教育とは違ったものである。第一に、私どもは、学校を知的修練の売り場とは決して考えなかった。修練を積めば生活費を稼げる様になるとの目的で、学校に行かされたのではなく、真の人間になるためだったた。私どもは、それを真の人、君子と称した。英語で言うジェントルマンに近い。(『代表的日本人』内村鑑三)

教師と生徒の関係は、もつとも濃やかだつた。教師を、あの近づき難い名称である教授と呼ぶ事はなかつた。先に生れた事を意味する「センセイ」と呼んだ。(『代表的日本人』内村鑑三)

例へ善事も報賞目当てになされるならば、例へ来世の報賞であつても、藤樹は反対でした。正義は、それ以外の動機を必要としません。(『代表的日本人』内村鑑三)

昔の教師は、わづかな年月に全知識を詰め込んではならないと考へていたのである。(これは賢明な事と思う。) これが私どもの昔の教育制度の優れた特徴の一つだつた。(『代表的日本人』内村鑑三)

人間は人間としてそれぞれ個性がある。私が私であり、あなたがあなたでなければならない。私が独り独立しており、あなたも独り独立しなければならない。その中でいかにして教育は教育であるべきか、人間がどのような人間であるべきか、中江藤樹の人間観を高く評価した。

大学には次のように書かれていました。天子から庶民にいたるまで人の第一の目的とすべきは生活を正すことにある。藤樹はこれを呼んで叫びました。「このような本があるとは。天に感謝する。」「聖人たらんとしてなりえないことがあろうか!」…聖人たれとはなんたることであろうか。(『代表的日本人』内村鑑三)

人間は分類してまとめることのできないもの一人一人、つまり顔と顔、魂と魂をあわせて扱われなくてはならない、と教師は信じていたように私には思われるのだ。それだから教師は私どもをひとりひとり、それぞれのもつ肉体的、知的、霊的な特性にしたがって教えたのである。…教師は私どもの名をそれぞれ把握していたのである。(『代表的日本人』内村鑑三)

学者とは徳によって与えられる名であって学識によるのではない。学識は学才であって、生まれつきその才能を持つ人が学者になることは困難ではない。しかし、いかに学識に秀でていても、徳を欠くなら学者ではない。学識があるだけではただの人である。無学の人でも徳を具えた人は、ただの人ではない。学識はないが学者である。(『代表的日本人』内村鑑三)

日蓮(1222~1282)

日蓮は1222年、安房国の漁師の家に生まれた。12歳で仏の道を目指す。しかし、仏さまの教えはひとつの教えにも関わらず、仏教は多くの宗派にわかれ、それぞれいがみ合っているのか、若き日蓮は比叡山を降り、民衆ひとりひとりに語りかけることを決めた。ここの市井の人々に語るということこそ、日蓮の宗教家としての生き方であり、この生き方に内村鑑三は大きく惹かれる。なお、これは内村鑑三の生き方に似ており、両者とも「人に届けてはじめてなにかが始まる」と考えていた。

どうしても私どもは、非科学的であることを恐れて目に見えるものに頼りがちな弱い人間であります。かつて今日ほどの知識はなくても誠実に雑事におわれなくても立派に生きていた時代がありました。だが、今の私どもは、そのわずかな名残だけにすがって行動するにすぎない存在なのです。もっと気高い行為と献身とをうながす天地の声が私どもの耳に聞こえてまいります。それにもかかわらず私どもは信仰をたのみ惰眠を貪っているのです。(『代表的日本人』内村鑑三)

この結論に達した時、蓮長(日蓮)には、喜びと感謝の気持ちが心の底から湧き上がり、目には涙が溢れました。蓮長はついに思いました。父と母とを捨てて、このすばらしい信仰に身を捧げることにした自分である。凡僧どもの伝えた古い教えにしがみつき、仏陀自信の金言を尋ねずにいてよいであろうか。この聖なる志が生じたとき、蓮長の年は20歳、田舎の寺院に引き籠っていることは、もはや許されませんでした。(『代表的日本人』内村鑑三)

日蓮は自分に与えられた役割は重要であるが、自分は低い人物であると考えた。宗教家である日蓮の言葉は民衆に受け入れられないことも多かった。ある人から見たらそれは狂っているかもしれないが、それでも語るべきことは語らないといけない。本当に人のことを思ったときの言いようのない、伝わらない悲しみを背負わなければならない。内村鑑三もまた同じことであった。

『私はとるにたらぬ、一介の僧侶であります。』日蓮はあるとき、ひとりの権力者を前にして語りました。しかし、法華経の弘布者として釈尊の特使であります。我が国の神々はすべて頭をたれて私を敬います。日蓮は自分の生命を重くみませんでした。だが、日本の国民はその法の担い手でもある日蓮を迫害しました。これは日蓮にとり、言いようのない悲しみを与えました。もし日蓮を発狂したと見るみるならそれは最高の自尊心と区別の付かない崇高な狂気でありました。(『代表的日本人』内村鑑三)

私は、宗教とは何かをキリスト教の宣教師より学んだのではありませんでした。その前に日蓮法然、蓮如など、敬虔にして尊敬すべき人々が、私の先祖と私とに、宗教の真髄を教へてゐてくれたのであります。 〈ドイツ語訳版後記〉(『代表的日本人』内村鑑三)

その日本人(日蓮)の経典に対する確信は、あのアラビア人がコーランに対して抱いていたものより強く、この点で私は、前者の方が後者よりは偉大であつたと信ずる者です。日蓮は、その経典を信頼していたために、物理的な力は必要でなかったのでした。(『代表的日本人』内村鑑三)

闘争好きを除いた日蓮、これが私どもの理想とする宗教者であります。(『代表的日本人』内村鑑三)