黒旗軍|清仏戦争で仏軍に抗した民兵勢力

黒旗軍

黒旗軍は、19世紀後半に中国南部からベトナム北部のトンキン地方で活動した武装集団である。太平天国の乱の残党や山地の土匪を出自とし、指導者劉永福のもとで黒い旗を掲げたことからこの名で呼ばれた。彼らは当初、国境地帯で略奪や通行税の徴収を行う半ば盗賊的な勢力であったが、やがて清朝とベトナム王権の庇護を受けつつ、フランスのインドシナ進出に抵抗する軍事力として重要な役割を担うようになった。

結成と背景

黒旗軍の源流は、19世紀半ばの中国社会を揺るがした太平天国の乱の敗残兵や、広西省・雲南省の山岳地帯で活動した土匪集団にさかのぼる。漢人だけでなく少数民族の農民や流民が加わり、清朝の重税や治安弾圧から逃れるために武装した彼らは、次第に国境を越えてベトナム北部へ流入した。山地に拠点を置いた集団は、現地社会と結びつきながら自前の徴税と自衛を行う独立勢力へと成長し、それをまとめあげた人物が劉永福であった。

阮朝ベトナムとの関係

19世紀後半、フランスはサイゴン条約によって南部コーチシナを植民地化し、さらにトンキン支配を目指して進出を強めた。ベトナムの王朝である阮朝とフエ宮廷は、正規軍だけでは北部国境を防衛できず、山岳に勢力を持つ黒旗軍を事実上の同盟者として利用する道を選んだ。朝廷は彼らを公式には「賊」と呼びつつも、実際にはフランス軍や協力的な地方勢力に対する防衛戦力として雇用し、拠点の容認や武器供与を通じて支援した。この結果、黒旗軍はベトナム王権と清朝の双方から黙認された「半公認」の武装勢力となった。

フランスとの戦闘

トンキンへの進出を進めるフランスは、現地の勢力図の中で黒旗軍を最大の障害として認識するようになった。1873年と1883年、ハノイ近郊の紙橋の戦いでは、黒旗軍がフランス軍の指揮官ガルニエやリビエールを討ち取り、フランス国内世論に大きな衝撃を与えた。これらの敗北は、トンキン征服のための本格的な軍事遠征を正当化する口実となり、やがて清仏戦争へ発展していく。戦闘において黒旗軍は、山岳地形を利用した待ち伏せや砦の防衛に長けたゲリラ部隊として行動したが、同時に村落からの徴発や略奪を行い、住民の支持と反発の両方を招いた。

清仏戦争と黒旗軍

とフランスの対立が深まり、1884年に清仏戦争が本格化すると、トンキン戦線で黒旗軍は清軍の同盟勢力として位置づけられた。形式上は清朝雲南・広西軍の配下とされつつも、独自の指揮系統と補給網を維持し、国境山地でフランス軍と激しい攻防を繰り広げた。しかし戦争全体の趨勢はフランス優位に傾き、最終的にフエ条約(ユエ条約)などの条約によってベトナムに対するフランスの保護権が確認され、トンキンとアンナンはベトナム保護国化の過程へと組み込まれた。この時点で、植民地軍事力に対抗する黒旗軍の可能性は大きく狭められた。

勢力の解体と劉永福のその後

講和成立後、フランス当局は治安回復を名目に黒旗軍の解体政策を進め、多くの戦闘員は武装解除されるか、山地に逃れて追討の対象となった。首領劉永福はトンキンを離れて中国側へ戻り、その後日清戦争期には台湾で日本軍に抵抗する運動に参加するなど、対外勢力への抵抗を続けた。一方でベトナムの王権は、フランス保護下の越南国として形式的には存続したものの実権を失い、トンキン社会は植民地支配と山地武装勢力の掃討作戦の中で再編されていった。

黒旗軍の歴史的評価

黒旗軍は、清朝やベトナム王権にとって統治の外部に位置する危険な武装勢力であると同時に、対フランス戦において動員可能な貴重な軍事資源でもあった。フランス側の資料では長らく「匪賊」「盗賊団」として描かれたが、後のベトナム民族主義史観では、植民地支配に抗した先駆的な武装抵抗運動として肯定的に評価される傾向が強い。また、中国側の地域史のなかでは、太平天国後の混乱から生じた越境武装集団の一例として位置づけられている。国境地帯で国家権力・在地社会・武装勢力が複雑に交錯するなかで活動した黒旗軍の歴史は、東アジア・東南アジア境界地域における近代国家形成と植民地支配のあり方を考える上で重要な事例となっている。