コーチシナ|ベトナム南部の仏蘭西植民地

コーチシナ

コーチシナは、近代期において南部ベトナムのメコンデルタ一帯を指す地理的・歴史的名称であり、19世紀後半以降はフランスの直轄植民地として位置づけられた地域である。中心都市はサイゴン(現在のホーチミン)で、米作地帯と外港を背景に、フランス領インドシナにおける経済的中核として機能した。前近代には阮朝勢力の拡大拠点であり、18世紀末の西山朝タイソンの乱とも深く関わる地域であったが、19世紀半ばのフランス軍事介入とサイゴン条約によって、植民地としてのコーチシナが成立することになった。

名称と地理的範囲

コーチシナという呼称は、ヨーロッパ人が南部ベトナムを指して用いた地名で、ポルトガル語やフランス語の表記を通じて定着したとされる。おおまかには現在のメコンデルタからサイゴン周辺にかけての低湿地帯が含まれ、稲作に適した肥沃なデルタと、輸出用の港湾都市が組み合わさった地域であった。伝統的なベトナム側の区分では「南圻」と呼ばれ、北部の「北圻」(トンキン)、中部の「中部」(アンナン)とは行政・文化の面で区別されていた。

用語の由来と日本語史料

ヨーロッパ人は、中国と区別するために南部ベトナムをコーチシナと呼び、日本語史料でも近代以降、この植民地名を借用するかたちで用いられた。日本語の外交文書や新聞は、フランス領インドシナに関する情報を伝える際にコーチシナという語を使い、南部の米作・ゴム生産地帯としての性格を強調している。

前近代の歴史的背景

南部地域は、17世紀以降、北方から南下を進めた阮朝諸侯の支配下に入り、クメール勢力やチャンパ勢力との争いを経て、ベトナム人開拓地としての性格を強めていった。18世紀末には西山朝の蜂起、すなわち西山の乱タイソンの乱が起こり、南部を拠点とする阮氏は一時壊滅的打撃を受ける。このとき、のちに嘉隆帝となる阮福暎はフランス人宣教師ピニョーの支援を受けつつ勢力を再建し、南部の拠点を足場として全土再統一を目指した点で、前植民地期のコーチシナはベトナム王権の形成と深く結びついていた。

フランスによる征服とサイゴン条約

19世紀半ば、フランスは宣教師保護と通商拡大を名目に軍事介入を強め、1850年代末から南部沿岸部を攻撃した。フランス軍はサイゴンなど要地を占領し、1862年に締結されたサイゴン条約によって、南部のいくつかの省を正式に割譲させることに成功する。その後もフランスは支配地域を拡大し、1860年代後半までにメコンデルタ一帯を掌握して、ここにフランス直轄植民地としてのコーチシナが成立した。

フランス領インドシナにおける位置づけ

1880年代以降、フランスはトンキン・アンナン・カンボジアなどを統合し、フランス領インドシナ連邦を組織したが、そのなかでコーチシナは唯一の「植民地(コロニー)」として、他地域とは異なる法的地位を与えられた。中部のアンナンや北部のトンキンが名目上は保護国として越南国王朝(阮朝)を残していたのに対し、南部コーチシナはフランス本国の行政と直接につながり、フランス人入植者・企業家が農園や商業活動を展開する実験場ともなった。

社会・経済構造の変化

植民地期のコーチシナでは、メコンデルタの灌漑整備や鉄道・港湾建設が進められ、米・ゴムなどの輸出作物の生産が拡大した。一方で、大土地所有者と小作農との格差は拡大し、農民は重い地代や税負担に苦しんだ。フランスの教育制度や司法制度も導入されたが、その恩恵を享受できたのは一部の都市住民や官僚層に限られ、農村社会では伝統的慣行と植民地支配が複雑に重なり合う社会構造が形成された。

  • 米・ゴムなど換金作物のプランテーション化
  • サイゴン港を中心とする輸出経済の発展
  • フランス人・華人商人による商業支配

ナショナリズムと独立運動

植民地支配のもとで、南部コーチシナでも知識人・労働者・農民による反植民地運動が展開された。増税や土地問題に抗議する農民運動、都市部でのストライキ、民族主義政党や革命団体の活動などが20世紀前半に相次ぎ、フランス当局は弾圧と懐柔策を併用して支配を維持しようとした。第2次世界大戦期には日本軍の進駐とフランス支配の動揺を背景に、独立をめざす勢力が各地で蜂起し、1945年の独立宣言後、南部地域はベトナム国家の帰属をめぐる激しい攻防の舞台となった。

ベトナム史におけるコーチシナの意義

コーチシナは、ベトナムが北部・中部・南部へと歴史的に拡大していく過程の最終段階にあたり、同時にフランス植民地主義によって地域分断が固定化された象徴的空間でもあった。南部の都市サイゴンや王都フエ(ユエ)などと結びつきながら、南部強調の政治構想や、メコンデルタを基盤とする経済発展像が描かれていった点で、コーチシナの経験はその後のベトナム国家形成を理解するうえで重要な位置を占めている。