自由|キリスト教, ドイツ観念論, 実存主義, 生物学,他

自由

自由は、一般的には強制や支配を受けずに拘束されていない状態をいう。思想や法・政治における自由では、法やルールの範囲で可能な行動を示すが、国や宗教、時代において、様々な解釈が存在する。

「~からの自由」と「~への自由」

「~からの自由」とは拘束や支配の状態からの脱することを意味する。「~への自由」とは、拘束や支配とは無関係に自分の意志に基いて目標を設定し、それに従って生きることを意味する。人間にとっては「~への自由」が重要である。

キリスト教における自由

聖書によれば、全知全能の神の支配を免れることはできず、人間もまた神に隷属する存在である。しかし、罪と罰、回心と悔い改め、審判と救済と言ったその説教は、人間の一定の自由を前提としている。全知全能な神に隷属しているにも関わらず、人間に自由がなければ、罪や罰、悔い改めなどが意味がない。このジレンマは神学的に大きな課題となっている。(キリスト教

エラスムスとルター

ルネサンスの人文主義者エラスムスが神との関係において人間の自由を強調したのに対し、宗教改革を行ったルターは、神の摂理の前では人間の自由に意味がないとした。

ホッブズが説く自由

近代哲学者ホッブズは政治学から人間の自由を見た。人間は国家ができる前の自然状態では自由で平等であったが、自由と平等の権利を無条件に行使できるがゆえに、「万人の万人に対する戦い」の状態になってしまう。それを回避すべく、人間は国家を設立した。互いに契約を結び、人間の権利の一部を国家に託すことによって自らの安全と健康を保護する。

カントにおける自由

カントにおいては、みずからが立法した道徳法則に自発的に従う実践的な自由をさす。理性が自己立法した法則に、みずから従う自律の能力である。自然の物理法則の中では、原因と結果の下、すべてが因果法則によって必然的に支配されている。その世界で道徳が可能であるためには、人格の自由があらねばならず、カントは、自然と同時に自由な人格の世界、英知界を想定する。人間は、感性的存在としては、必然的な自然界に、道徳的人格としては、自由な英知界の両方に属している。人格は、英知界の自由を根拠にして、みずからが立法した道徳法則に従ってを実践する。

フランス革命の自由

フランス革命では、自由を求めた革命であった。宗教とは関係ない自由の議論で、社会システムが構築されるさい、その目的はすべて自由を実現するためでなければならない。

ドイツ観念論における自由

フランス革命からすぐドイツでは自由の議論が活発化する。ドイツ観念論の哲学者たちは自由の体系はいかに可能かという問いをテーマに議論を展開した。フィヒテは『知識学』において、みずからを自由に定立する自我を第一原理として世界のすべてを説明しようとした。シェリングは自我の代わりに自然を根本においた自然哲学を展開し、ヘーゲルは人間の歴史を自由の意志の発展として説明し、壮大な歴史哲学を作る。

社会主義の自由

産業革命以降、マルクスを筆頭した社会主義者たちは、経済に基づいた自由が説かれるようになる。資本主義は人間が疎外される傾向にあり、生産物と生産手段を少数者が独占し、そこに自由はない。資本主義を廃絶し、共産主義が建設されることによってでしか人間の自由は達成されないと考えた。

実存主義の自由

実存主義者キルケゴールは自由を私がすでに背負わされてしまう、私の存在(実存)そのものの内に見出した。自らがどのように生きるべきかを、自分の責任において主体的に選択していきなければならない、とした。ヤスパースは己の決意において自由を経験し、存在そのものが選択の自由にほかならない。サルトルは、「人間は自由の刑に処されている」とし、自由の中で選択肢て生きなければならないことに現代人の苦悩を指摘した。

環境世界の自由

20世紀には生物学者から新しい自由の議論が生まれた。ドイツの動物学者ユクスキュルは環境世界理論を展開し、動物はみずから生きる世界との相互作用のうちにあり、それぞれの種の固有な環境世界を作り上げている、とした。これに対し、シェーラーやゲーレンはみずからの環境世界に束縛されている動物と人間は根本的に異なっており、人間にとって世界は無限に開かれており、世界に能動的に働きかけることができる。自由は世界と人間との環境において語られるようになった。

タイトルとURLをコピーしました