日英同盟の破棄|ワシントン体制への転換点

日英同盟の破棄

日英同盟の破棄とは、明治期以来続いてきた日本とイギリスの軍事同盟である日英同盟の終了を指し、1920年代前半の国際情勢の変化の中で行われた外交上の大転換である。ロシア牽制を目的に結ばれた同盟は、やがて日本の大国化と帝国主義外交を支え、第一次世界大戦中には協調関係を通じて日本の国際的地位を高めた。しかし戦後、国際連盟を中心とする集団安全保障の構想や、アメリカの台頭により、特定国同士の排他的同盟は時代遅れとみなされるようになり、この流れの中で同盟は延長されずに終了したのである。

日英同盟の成立とその性格

日英同盟は1902年に締結され、日本が清国への進出を進めた日清戦争後、ロシアの南下政策に危機感を抱いた両国の利害が一致した結果として生まれた。同盟は、東アジアで一方の同盟国が二国以上から攻撃された場合、他方が援助するという性格を持ち、日本にとっては列強の一員として承認される重要な意味を持った。日露関係が緊張する中で同盟は1905年、1911年と改定され、日露戦争の勝利や韓国併合を正当化する国際的な後ろ盾ともなった。ただし、同盟は英国のインド防衛と日本の大陸進出という相互の帝国主義的利益に立脚した二国間の軍事約束という性格を色濃く持っていた。

第一次世界大戦後の国際環境の変化

第一次世界大戦は、同盟と協商に分かれた列強間の対立が総力戦へと拡大した結果であり、戦後にはこのような秘密同盟体制そのものが戦争の原因として批判された。戦勝国は新たに国際連盟を設立し、集団安全保障と公開外交を掲げたため、二国間の軍事同盟はその理念と矛盾する存在となった。また、戦後のヨーロッパ秩序を規定したヴェルサイユ体制の下で、イギリスは世界の平和維持においてアメリカとの協調を重視するようになり、日本との排他的同盟はアメリカとの摩擦要因とみなされた。特に太平洋地域で日本と利害が衝突しうるアメリカは、日英同盟の継続に強く警戒心を抱いた。

ワシントン会議と新しい多国間体制

1921年から22年にかけて開催されたワシントン会議は、アメリカ大統領ハーディングの招請により、太平洋と中国問題、海軍軍備の制限を協議する国際会議として開かれた。この会議でイギリスと日本は、アメリカ・フランスを加えた四国間で太平洋地域の現状維持と相互協議を定めた四カ国条約に参加し、従来の二国間同盟に代えて多国間の協調枠組みを受け入れた。同時に中国の主権尊重と「門戸開放・機会均等」をうたった九カ国条約や、主力艦保有量に上限を設けたワシントン海軍軍備制限条約も結ばれ、太平洋・東アジアの秩序はワシントン体制と呼ばれる新たな国際秩序へと再編された。この多国間体制の成立と引き換えに、日英同盟は更新されず、期限満了によって形式上も終焉を迎えた。

英連邦とアメリカの思惑

日英同盟の継続をめぐっては、イギリス本国だけでなくカナダやオーストラリアなど英連邦諸国の意向も大きな役割を果たした。とりわけ北米に位置するカナダは、アメリカとの関係悪化を恐れ、同盟更新に強く反対したとされる。一方、アメリカは自国が参加していない日英同盟が存続すれば、太平洋で日本とイギリスが結束して自国に対抗するのではないかと懸念し、同盟の終了を事実上の条件としてワシントン会議を主導した。こうして英連邦内の意見とアメリカの圧力が重なり、イギリス政府は日本の期待に反して同盟延長よりも対米協調を優先する判断を下したのである。

日本国内の反応と外交路線の転換

日本国内では、海軍や一部の世論において日英同盟の継続を望む声も根強かった。ロシアやアメリカとの潜在的対立を念頭に置くと、列強イギリスとの軍事同盟は安全保障上の「保険」とみなされていたためである。しかし外務官僚や政財界の一部は、アメリカを含む多国間協調に参加することで国際的孤立を避けるべきだと考え、同盟終了を受け入れた。結果として日本は、国際連盟とワシントン体制の枠内で大国としての地位維持を図る「協調外交」路線へと舵を切り、当面はアメリカとの関係改善に努めることになった。この過程は、アメリカの国際連盟不参加という矛盾を抱えつつも、英米との連携を重視する大正期外交の特徴を示している。

日英同盟破棄の歴史的意義

日英同盟の破棄は、明治以来の二国間同盟を軸とした帝国主義外交から、国際会議と多国間条約を通じた協調外交への移行を象徴する出来事である。短期的には、アメリカを含むワシントン体制への参加によって、日本は列強の一員として太平洋秩序の管理に関与し続ける道を確保した。他方で、中国権益の制約や海軍軍縮に不満を抱いた軍部・ナショナリストの間では、この体制を「不平等」とみなす見方も強まり、後の対英米不信やブロック経済への対抗意識の温床となったと評価される。つまり同盟破棄は、協調と反発という二つの契機を内包しながら、日本外交が大正期から昭和期の新たな局面へと移行していく出発点となったのである。