九カ国条約
九カ国条約は、1921~22年に開かれたワシントン会議で締結された、中国に関する国際秩序を定めた多国間条約である。アメリカ、イギリス、日本、フランス、イタリア、ベルギー、オランダ、ポルトガル、中国の9カ国が参加し、中国の主権と領土保全の尊重、門戸開放と機会均等の原則を確認した。これは第一次世界大戦後のヴェルサイユ体制を補完し、アジア太平洋地域における新たな国際秩序である「ワシントン体制」の柱の1つとなった。
成立の背景
九カ国条約成立の背景には、列強による中国分割の進行と、それに対するアメリカの門戸開放政策があった。19世紀末から列強は勢力範囲・租借地・利権を拡大し、中国の主権は大きく侵害されていた。さらに日本は二十一カ条要求や山東省問題などで中国に強い圧力をかけ、対中不満が高まっていた。こうした状況を調整し、軍拡競争を抑えたいアメリカ大統領ハーディングの呼びかけでワシントン会議が開かれ、その一環として九カ国条約が構想されたのである。
条約の内容
九カ国条約は、中国問題に関する基本原則を定めた一般条約であり、具体的な領土画定よりも原則確認に重点が置かれた。おもな内容は次のように整理できる。
- 中国の主権・独立・領土保全の尊重
- 中国における行政上・経済上の機会均等(門戸開放)の確認
- 特定列強のみが特権を拡大しないことの約束
- 中国に関する重要問題が生じた場合の協議義務
とくに、アメリカが提唱してきた門戸開放と機会均等の原則が国際条約として明文化された点に九カ国条約の特徴がある。他方で、すでに獲得された租借地や権益そのものを全面的に否定するものではなく、既存秩序を前提に調整を図る性格が強かった。
中国の主権尊重と門戸開放
九カ国条約は、中国政府が形式的には対等な締約国として参加した点で、それまでの不平等条約とは性格を異にした。列強は中国の独立と領土保全を尊重することを約束し、経済活動においても機会均等を掲げた。これにより、中国は少なくとも外交文書上は、列強から主権を認められた形になった。しかし、治外法権や関税自主権の欠如といった不平等条約体制が即座に解消されたわけではなく、中国側の期待とはギャップが残った。
列強間の利権調整
九カ国条約は、中国のための条約であると同時に、列強同士の利害調整の道具でもあった。列強は、互いの勢力範囲を急激に変更することなく、将来的な紛争を避けるための協議枠組みを手に入れたのである。とりわけ、日本の中国大陸における「特殊権益」は黙認されつつも、その拡大には一定の歯止めがかけられた。この点で、同じくワシントン海軍軍備制限条約や四カ国条約・五カ国条約とともに、列強の対立を抑制する仕組みとして機能することが期待された。
ワシントン体制における位置づけ
九カ国条約は、軍縮をめぐるワシントン海軍軍備制限条約と並び、「ワシントン体制」と呼ばれる新しい国際秩序の重要な要素である。第一次世界大戦後、ヨーロッパでは国際連盟とヴェルサイユ体制が国際秩序の枠組みを提供したが、太平洋・東アジア地域ではこれらに加え、アメリカ主導の会議外交が大きな役割を果たした。とくに、二国間の同盟であった英日同盟が集団安全保障的な多国間条約に置き換えられたことで、地域秩序はより国際協調的な性格を帯びることになった。
影響と限界
九カ国条約は、中国に関する列強の行動原則を国際条約として明示した点で、一定の歴史的意義をもつ。中国の民族運動にとっても、列強自らが主権尊重を約束したことは、後の不平等条約改正要求の根拠として利用された。しかし、条約には強制力ある制裁規定がなく、違反があっても協議にとどまる仕組みしか用意されていなかった。このため、1930年代に日本が満州事変を起こし、中国侵略を本格化させると、各国は強い措置を取れず、実効性の乏しさが露呈した。アメリカがアメリカの国際連盟不参加のまま一国主義的姿勢を崩さなかったことも重なり、九カ国条約とワシントン体制は長期的な平和維持にはつながらなかったのである。