中国共産党
中国共産党は、1921年に結成された中国のマルクス・レーニン主義政党であり、現在の中華人民共和国を支配する唯一の与党である。ロシア革命とマルクス主義の影響を受けて成立し、農民革命を基盤として中国国民党との内戦を経て1949年に政権を掌握した。以来、計画経済の構築、大躍進政策や文化大革命、その後の改革開放といった路線転換を通じて、中国の政治・経済・社会を一貫して指導してきた政党である。
成立の背景
近代中国では、清朝の崩壊と辛亥革命によって帝制が倒れたものの、軍閥割拠と列強の半植民地支配が続き、政治的混乱と社会不安が広がっていた。1919年には、ヴェルサイユ条約に対する学生・市民の抗議である五四運動が起こり、民族独立と社会改革を求める思想が高揚した。このなかで、ロシア十月革命の成功は、新しい国家建設のモデルとして知識人に大きな衝撃を与え、マルクス主義やコミンテルンの影響のもとで、中国でも共産主義政党の結成が模索されるようになった。
結成と初期の活動
中国共産党は1921年、上海において陳独秀や李大釗らを中心とする各地のマルクス主義グループが集まり、第1回全国代表大会を開いて正式に結成された。党は当初、都市労働者の組織化とストライキ指導を通じて革命の基盤を築こうとし、また孫文率いる中国国民党と提携して、帝国主義と軍閥に対抗する国民革命を推進した。この第一次国共合作は、コミンテルンの指導のもと、統一戦線として位置づけられた。
国共対立と長征
しかし1927年、南京政府を樹立した蒋介石が共産党勢力を弾圧したことで第一次国共合作は崩壊し、中国共産党は都市から農村へと活動の重心を移すことを余儀なくされた。毛沢東は、湖南省などで農民を組織した武装蜂起を指導し、農村根拠地の建設に取り組んだが、国民党軍との戦闘によって次第に包囲されることになった。1934年に始まる長征は、この包囲突破と根拠地移動の過程であり、延安への到達を通じて毛沢東の指導的地位が確立される象徴的な出来事となった。
抗日戦争と政権掌握
1930年代後半、日本の中国侵略が本格化すると、民族危機の高まりのなかで第二次国共合作が成立し、中国共産党と国民党は形式上の抗日民族統一戦線を結成した。延安を拠点とする共産党は、八路軍・新四軍を通じて抗日戦争に参加しつつ、農村での土地改革や大衆動員を進め、広範な民衆基盤を築いた。1945年の日本敗北後、国共内戦が再燃したが、共産党は農村包囲戦略とゲリラ戦を組み合わせた軍事力、そして土地改革を求める農民層の支持を背景に優位に立ち、1949年に北京で中華人民共和国の成立を宣言した。
社会主義建設と政治運動
中国共産党は政権掌握後、ソ連型の計画経済を導入し、工業国化と農業集団化を柱とする社会主義建設を進めた。1950年代後半には毛沢東が主導して大躍進政策が実施され、人民公社の設立によって急激な生産拡大が試みられたが、結果として深刻な経済混乱と飢餓を引き起こした。1960年代後半に展開された文化大革命では、党内闘争とイデオロギー闘争が激化し、社会秩序が大きく動揺したが、一方で毛沢東個人のカリスマ的権威が強調され、党と国家機構は長期にわたる混乱を経験した。
改革開放と現代の中国共産党
毛沢東の死後、鄧小平が実権を握ると、中国共産党はイデオロギーを修正し、市場メカニズムを導入した改革開放路線へと大きく舵を切った。社会主義市場経済のもとで、対外開放と経済成長が進められる一方、政治体制としては一党支配が維持され、党の指導原則が確認された。その後も江沢民・胡錦涛・習近平ら歴代指導部のもとで、中国共産党は国家の最高指導機関として位置づけられ、党内規律の強化やナショナリズムの動員を通じて、経済発展と社会統合を同時に追求する体制を維持している。
指導者と組織構造
中国共産党の指導者としては、建国期の毛沢東、改革路線を推進した鄧小平のほか、江沢民・胡錦涛・習近平などが挙げられる。党の最高意思決定機関は全国代表大会と中央委員会であり、その下に政治局とその常務委員会が置かれている。また、党中央軍事委員会を通じて軍隊への指導権を確保し、党組織は地方行政・国有企業・大学や農村にまで張り巡らされている。このように、中国共産党は国家機構と社会組織の上に立つ支配的主体として、中国の政治秩序を規定し続けている。