鄧小平|現代中国を作った政治家,経済の自由化・開放政策

鄧小平

鄧小平は、現代中国の政治家で、毛沢東を支え、毛沢東の死後は中国の経済自由化をおこなった。1904年四川省の出身でフランスに留学、帰国後は抗日戦争を戦った。毛沢東の死後、胡耀邦や趙紫陽を担ぎ、副書記の立場で実権を掌握した。天安門事件を鎮圧し、民主派の江沢民を総書記まで引き上げた。

鄧小平

鄧小平

文革時代

文革時代には失脚していたが、1973年4月に復権し、1975年に国務院を指揮して十カ年(1976~85年)計画の草案を計画した。また文革の収拾のため「全党全国の各項目工作の総網」や「工業二十条」と「科学院工作報告要網」を作成したが、四人組によって却下される。周恩来の死後、毛沢東や四人組と鄧小平との対立関係が続くが、毛沢東や四人組が実権を握ることにより、その後、毛沢東が死去するまで失脚を余儀なくした。

毛沢東の死去

「大躍進政策」や「文化大革命」によって中国に多大の被害をもたらした毛沢東は、1976年9月に死去、毛沢東の後継をになった華国鋒(かこくはう)首相は、毛沢東の妻の江青ら、文化大革命を推進した「四人組」を逮捕したが、その後、失脚し、「文化大革命」中に失脚していた鄧小平が復活し、1979年には実質的な権力を掌握した。

胡耀邦主席

1981年、共産党中央委員会総会で、鄧小平の忠実な弟子であった胡耀邦が党主席(総書記)に就任、鄧小平は、副主席についた。副主席でありながら実質的には最高権力者として決定権をすべて掌握していた。

経済改革

鄧小平は、経済の改革・開放路線をすすめ、農業の集団化を廃止、個人農家を復活させ、一定量の農産物以外は、農家の所得としてみとめた。自由化は、農家の生産意欲は高め、生産性は、飛躍的に発展し、飢饉は克服した。同時に、個人の商売も認められ、商業も発展しました。

経済開放

鄧小平は経済開放をすすめ、海外の企業からの投資を認めた。海外の企業と中国の企業が資金を出しあって会社を作る合弁会社も出現した。経済開放は飛躍的に中国経済を伸ばした。

北京の春

華国鋒の時代には北京の春と呼ばれる言論の自由が見られた。壁新聞と呼ばれる限られたものであったが、毛沢東や文化大革命批判の記事が容認された。しかし、鄧小平が実権を握り、批判が鄧小平に向かうと一転して弾圧に向かい、代表者の魏京生は逮捕された。

精神汚染一掃運動

1983年、保守派による「精神汚染」一掃運動が起きた。鄧小平の改革・開放によって、資本主義諸国から「汚れた思想」が入り、中国国内の精神汚染が起きているから、これを一掃しなければならない、というものであった。女性のパーマやスカートの着用、台湾出身のテレサ・テンの歌を聞くことも精神汚染とされた。改革派の胡耀邦はこの運動を批判し、中止させた。精神汚染一掃運動をきっかけに改革派の胡耀邦と、保守派との対立が表面化する。

胡耀邦の失脚

1986年1月、安徽省の科学技術大学で学生が民主化を求める集会を開いたが胡耀邦はこれを黙認した。保守派は黙認したことに危機感を募らせ、これを批判、1987年1月、胡耀邦は党の総書記を辞任に追い込まれ、鄧小平はそれを認めた。

趙紫陽

胡耀邦の後任の共産党総書記は、趙紫陽(ちょう・しよう)が選任された。鄧小平にとって趙紫陽は胡耀邦と同等の弟子に当たる人物で信頼を置いていた。

胡耀邦の追悼

胡耀邦は失脚した2年後、死去するが、学生たちは民主化を求めた胡耀邦の追悼を行った。北京大学から天安門広場で追悼デモを行ったが、当初は追悼デモであったものの、次第に言論の自由や共産党批判につながっていく。

趙紫陽と鄧小平

デモは次第に大きくなるにつれ、デモを容認する趙紫陽と鄧小平・保守派が対立するようになる。民主化を進めるゴルバチョフ総書記との会談で趙紫陽は鄧小平が実権を握っていることを暴露すると、デモは盛り上がり、最大で100万人にまでデモが大きくなった。

天安門事件

鄧小平と保守派は、学生たちを軍事弾圧することを決定、人民解放軍が出動して弾圧した。これを天安門事件という天安門事件の後も公安はデモ参加者を徹底的に逮捕した。

天安門事件

天安門事件

これは一般の学生運動ではなく明らかに動乱だ。この動乱を強力に押えつけなければならない。動乱を引き起こした者たちは、ユーゴスラビア、ハンガリー、ポーランド、ソ連における政治思想の自由化に影響されている。民衆の悪口や国際的な反応を恐れてはならない。我々には数百万の人民解放軍がある。ポーランドでは譲歩が一層の譲歩につながった。譲歩すればするほど、混乱が大きくなった。

江沢民

胡耀邦、趙紫陽の両者が失脚したのち、上海で民主化を進めていた江沢民を総書記に置いた。

江沢民

江沢民

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