毛沢東
毛沢東は、20世紀中国を代表する革命家・政治指導者であり、中華人民共和国の成立とその後の政治・社会体制に決定的な影響を与えた人物である。湖南省出身の農民の子として生まれた毛沢東は、青年期に民族独立と社会変革を志向する思想を形成し、中国共産党の創設メンバーの一人として中国革命を主導した。中華人民共和国主席として社会主義国家建設を推し進める一方、「大躍進政策」や「文化大革命」など急進的な路線により多大な混乱と犠牲ももたらし、その評価は現在も大きく分かれている。
生い立ちと青年期
毛沢東は1893年、湖南省湘潭県韶山の農村に生まれた。比較的裕福な農家に育ちながらも、父との不和や農村社会の矛盾を経験し、早くから旧来の身分秩序に批判的な意識を育んだとされる。長沙の学校で新式教育を受けた毛沢東は、辛亥革命や「新文化運動」に触れる中で、民族主義と民主主義、さらに社会主義思想に関心を深めていった。とりわけ陳独秀や胡適らが提唱した新文化運動は、儒教的価値観を批判し、科学・民主を掲げるものであり、青年期の毛沢東に強い影響を与えたとされる。
中国共産党への参加と農村革命
1921年に結成された中国共産党は、ロシア革命の成功とレーニンのボリシェヴィキ政権に触発されて誕生した政党であり、毛沢東もその創設過程に参加した。都市労働者を重視する方針が主流であった党内において、毛沢東は農村こそ中国革命の基盤であると主張し、湖南省で農民運動を組織した。国民党との第1次国共合作が崩壊し、上海クーデタ以降、共産党勢力が弾圧されると、毛沢東は井岡山など山間部に根拠地を築き、農民を主力とする紅軍を組織してゲリラ戦・游撃戦を展開した。この農村包囲路線は、のちに毛沢東特有の革命理論として位置づけられる。
長征と抗日戦争
1934年、国民党軍の包囲攻勢に追いつめられた共産党勢力は、江西ソヴィエト区から西北部を目指す大規模な撤退行動「長征」を開始した。この過酷な行軍の過程で多くの犠牲を払いながらも生き残った指導部の中で、毛沢東は軍事的・政治的指導力を発揮し、延安到着後には党内での指導的地位を固めていく。1937年に日中戦争が勃発すると、第2次国共合作が成立し、共産党は抗日民族統一戦線の一翼を担った。延安の根拠地では、「整風運動」によって党組織の統一と思想統制が進められ、毛沢東の理論は「毛沢東思想」として体系化され、中国革命の公式路線として確立した。
中華人民共和国の成立と統治体制
日本の敗戦後、中国内戦が再燃すると、共産党は農地改革と住民工作を通じて農民層の支持を拡大し、国民党との内戦を優位に進めた。1949年、共産党は北京で中華人民共和国の成立を宣言し、毛沢東は国家主席・党主席として新体制の最高指導者となった。建国後はソ連型社会主義をモデルに計画経済の導入と重工業優先の政策が推進され、土地改革や「反革命分子」弾圧などの政治運動が展開された。スターリン時代のソ連との同盟関係は冷戦構造の中で中国の安全保障を支えたが、やがてイデオロギーと外交路線の対立から中ソ対立へと転じていく。
大躍進政策と飢饉
1950年代後半、毛沢東は農工業の急速な成長をめざす「大躍進」政策を提唱した。人民公社の設立による農村の集団化や鉄鋼増産運動など、政治的動員に依拠した急進的政策は、統計の誇張や現場の混乱を引き起こし、結果として農業生産は大きく低下した。さらに自然災害や流通の混乱も重なり、1959年ごろから深刻な飢饉が発生し、多数の餓死者が出たと推定される。この失敗により、国家運営をめぐる毛沢東の権威は一時的に後退し、劉少奇や鄧小平ら実務派が経済調整を進める局面が生まれた。
文化大革命と個人崇拝
1960年代半ば、毛沢東は自らの路線を批判する党内勢力を「資本主義の道を歩む当権派」と規定し、若者や知識人を動員した「文化大革命」を発動した。紅衛兵と呼ばれる青年集団は、旧来の文化・伝統や党・国家機構を激しく批判し、多くの幹部や知識人が迫害・失脚させられた。文化財の破壊や教育・行政の混乱、内戦状態のような武闘が各地で発生し、中国社会は長期にわたって混乱に陥った。毛沢東は「偉大な舵手」として個人崇拝の対象となり、その肖像や語録は国民生活のすみずみに浸透したが、政治的権力闘争と社会不安の代償は極めて大きかった。
晩年と歴史的評価
1970年代に入ると、毛沢東は健康を損ないつつも、米中接近を通じて国際的孤立を打開し、冷戦構造に変化をもたらした。1976年に毛沢東が死去し、その直後に「四人組」が逮捕されると、党指導部は文化大革命を「大きな混乱」として否定的に総括する方向へ進んだ。改革開放期の中国では、毛沢東について「功績が主で過ちが従」という公式評価が示され、一方で大躍進や文化大革命に伴う人権侵害・犠牲に対する批判も国内外で根強い。農村を重視した革命戦略や、第三世界における反帝国主義運動に与えた影響など、毛沢東の歴史的意義は多面的であり、現在も研究と議論の対象であり続けている。