コミンテルン|各国共産党を統一した国際組織

コミンテルン

コミンテルンは、1919年にモスクワで結成された国際的な共産主義政党の連合組織である。正式名称は「共産主義インターナショナル」であり、世界各国の共産党を指導し、世界規模でのプロレタリア革命と社会主義建設を推進することを目的とした。ソヴィエト政権とレーニンの指導のもと、旧来の社会主義勢力を糾合しつつ、新たな革命運動の中心となった組織である。

成立の背景

コミンテルンの成立の背景には、第一次世界大戦とその中での社会主義運動の分裂がある。多くの社会民主主義政党は自国政府の戦争政策を支持し、国際連帯の原則を放棄したため、第2インターナショナルは事実上崩壊した。この状況の中で、1917年のロシア革命に成功したボリシェヴィキ独裁政権は、戦争と資本主義に反対する新しい国際組織の結成を呼びかけたのである。

設立と組織構成

1919年3月、第1回共産主義インターナショナル大会がモスクワで開かれ、ここでコミンテルンの結成が宣言された。各国の共産党が加盟政党とされ、世界大会と執行機関である執行委員会を通じて方針が決定された。中心にはソヴィエト・ロシアを基盤とする指導部があり、実際にはソ連共産党とソヴィエト政府の意向が強く反映される組織構造であった。

イデオロギーと基本方針

コミンテルンは、マルクス主義・レーニン主義に立脚し、世界資本主義体制を打倒するための国際革命の指導を掲げた。その基本方針は、階級闘争の徹底と、労働者階級による国家権力掌握、すなわちプロレタリア独裁の樹立にあった。同時に、各国の党組織に対して民主集中制を要求し、中央の決定に従う強固な組織原理を打ち出した。

コミンテルンと各国共産党

コミンテルンは、世界各地で共産党の結成を促し、その綱領や戦術を具体的に指導した。ドイツ、フランスなどヨーロッパの党のみならず、中国や日本を含むアジアの党もその影響下に置かれた。とくに植民地や半植民地地域では、民族解放運動と結びついた革命運動の推進が重視され、反帝国主義闘争の理論的拠点ともなった。

戦術転換と人民戦線

1920年代末から30年代にかけて、コミンテルンは世界情勢に応じて戦術を大きく転換した。当初は社会民主主義勢力を「社会ファシズム」として激しく攻撃し、徹底した階級闘争路線をとったが、ナチズムの台頭とファシズムの拡大を前にして、この路線は見直される。1935年以降は、反ファシズムを掲げた人民戦線戦術が採用され、他の左翼勢力や民主主義勢力との共同戦線が呼びかけられた。

ロシア革命体制との関係

コミンテルンは、ソヴィエト・ロシア、とくにロシア=ソヴィエト連邦社会主義共和国の外交政策とも密接に結びついていた。世界革命の拠点であるソヴィエト政権を守ることが最重要課題とされ、ときに各国の革命運動よりもソ連の安全保障が優先されることもあった。この点は、戦時共産主義赤軍の政策とも関連し、国際革命と一国家の利益の間に緊張を生み出した。

日本との関係

日本では、1922年に結成された日本共産党がコミンテルンの一支部として位置づけられた。綱領や路線はモスクワからの指示に大きく依存し、天皇制打倒や帝国主義戦争への反対など、急進的な革命路線が掲げられた。このため、日本国内では厳しい弾圧を受け、治安維持法体制のもとで多くの党員が逮捕・拷問・獄死する事態となり、対立は深刻化した。

内部分化とスターリン体制

レーニン死後、コミンテルンはスターリンの権力掌握とともに、ソ連国内の権力闘争の影響を強く受けるようになった。組織内では反対派の粛清が進み、各国共産党でもソ連指導部の路線に反する指導者が排除された。こうした過程は、国際共産主義運動の多様性を狭め、モスクワ中心の硬直した指導体制を強める結果となった。

対ソ干渉戦争と国際関係

ロシア革命直後の対ソ干渉戦争期に、ソヴィエト政権は国際的に孤立していたが、コミンテルンの活動はこの孤立を打破しようとする試みでもあった。各国での革命運動の高揚は、資本主義諸国に圧力をかけ、ソ連との外交関係樹立にも間接的に影響を与えたと評価される。一方で、各国政府はコミンテルンを自国体制への脅威とみなし、厳しい監視と弾圧政策をとった。

解体とその後

第二次世界大戦期になると、ファシズム打倒のための連合国との協調が重視され、ソ連は対外的信頼を得る必要に迫られた。この中で、1943年にコミンテルンは公式に解体され、国際組織としての役割を終える。解体後も、ソ連と各国共産党の関係は続き、戦後には別個の国際組織が形成されるが、その源流にはコミンテルンが築いた組織モデルと思想的枠組みが存在していたのである。