スコットランド征服|クロムウェルの支配と抵抗

スコットランド征服

17世紀半ばのスコットランド征服は、イングランドの清教徒革命とイングランド内戦の延長として、共和政体制がスコットランドを軍事的に制圧した過程である。チャールズ1世処刑後、スコットランドはチャールズ2世を国王として擁立し、イングランド共和国と対立した。これに対してクロムウェル率いる新型軍が北上して戦役を展開し、ダンバーの戦い・ウォースターの戦いを通じてスコットランド側を屈服させた。この征服によって、スコットランドは一時的にイングランド共和国の直接支配下に置かれ、のちの合同王国形成への一段階をなしたと評価される。

歴史的背景

17世紀の三王国戦争では、イングランド・スコットランド・アイルランドの三つの王国が、王権と議会、ならびに宗教政策をめぐって連鎖的に動揺した。スコットランドでは長老派教会を守ろうとする盟約派が台頭し、チャールズ1世の宗教改革に反発して武装蜂起した。やがてイングランド側でも王権と議会の対立が激化し、王党派と議会派の内戦が勃発する。イングランド内戦の過程で議会派はネースビーの戦いなどで勝利し、チャールズ1世を処刑して共和政コモンウェルス体制を樹立した。しかしスコットランドは王党側に立ち、チャールズ2世を国王と認めたため、両者の軍事的対決は避けられなくなった。

戦役の展開

クロムウェルの侵攻とダンバーの戦い

1650年、クロムウェルは経験豊かなスコットランド征服遠征軍を率い、北イングランドからスコットランドへ進軍した。議会派の主力である新型軍は規律と装備に優れ、火器中心の近代的軍隊であったのに対し、スコットランド軍は数こそ多いものの補給や訓練の面で劣っていた。雨と疫病に悩まされながらもクロムウェル軍は沿岸部に陣を敷き、1650年9月のダンバーの戦いでスコットランド軍を奇襲的に撃破した。この勝利によって東低地地方が制圧され、スコットランド側の戦略的主導権は大きく失われた。

チャールズ2世の侵入とウォースターの戦い

ダンバー敗北後もスコットランドは抵抗を続け、チャールズ2世を中心とする王党勢力は、戦局打開のためイングランド本土への侵入作戦を選択した。1651年、スコットランド軍は北からイングランドへ進撃し支持拡大を試みたが、多くの住民は共和政体制のもとでの秩序を選び、積極的に王党派に合流しなかった。これに対しクロムウェルは機動力を活かして追撃し、1651年9月のウォースターの戦いで決定的勝利を収めた。この敗北によってチャールズ2世は大陸への亡命を余儀なくされ、軍事的抵抗は散発的なゲリラ戦を除きほぼ終息した。

征服後の統治とスコットランド社会

戦後、スコットランドはイングランド共和国の一部として編入され、議会はロンドンのウェストミンスター議会に統合された。駐屯軍が各地の城塞や要地に配置され、治安維持と反乱抑圧の役割を担った。税制や通商制度もイングランドに合わせて再編され、対外貿易においてはイングランド商人が優位に立つ構造が強まった。一方で、長老派教会制度は一定程度維持され、宗教政策では急激な一体化が避けられたと指摘される。こうした軍事占領と漸進的同化の組み合わせは、同時期のアイルランド征服と比べて暴虐性がやや抑えられていたものの、土地没収や経済負担によってスコットランド社会に大きな緊張を残した。

意義と後世への影響

スコットランド征服は短期的にはイングランドの共和政コモンウェルス体制を防衛し、三王国戦争を終結させる役割を果たした。軍事面では、新型軍による近代的な指揮統制と火力運用が、山岳や湿地を含む厳しい地形のもとでも有効であることを示し、後のヨーロッパ軍制にも影響を与えたとされる。また政治面では、スコットランドを含む島嶼全体を単一の国家単位として統合しようとする構想が具体化し、1707年の合同法を通じて成立するグレートブリテン王国の前提を築いた。一方で、征服と軍政の記憶はスコットランドの対イングランド感情を複雑化させ、王党派や急進的諸派、さらには水平派ディガーズなど清教徒革命期の多様な政治思想と絡み合いながら、後世に議論を残し続けている。