水平派|日本共産党の左派急進派

水平派

水平派は、17世紀のイングランドで起こったピューリタン革命の時期に活動した急進派グループである。英語では Levellers と呼ばれ、王政を打倒して成立した共和政下で、人民主権・法の下の平等・信教の自由・選挙制度の改革などを主張した。とくに議会と政府の権力を「水平」に均すことをめざしたことから、既存の身分的特権に対抗する民主主義的運動として位置づけられる。同時期の議会派独立派と比べても、政治参加の拡大を強く求めた点で特徴的である。

歴史的背景

水平派の登場は、17世紀半ばのイングランド社会の混乱と密接に結びついている。国王チャールズ1世と王党派に対抗する議会派が内戦を戦うなかで、徴税・宗教政策・議会権限をめぐる不満が高まり、都市の職人や中小自営農民、兵士たちの間に急進的な政治意識が広がった。宗教面では、清教徒や独立派教会など多様なプロテスタント諸派が台頭し、聖書に基づく平等観から、世襲貴族や国王の特権を批判する思想が生まれたのである。

思想と主張

水平派の思想の中心は、「生まれながらの権利」と「人民の同意にもとづく政治」であった。彼らは、人びとは生得的に自由であり、政府は人民の信託に基づいてのみ権力を行使できると考えた。その具体化として、有名な「Agreement of the People(人民協定)」を提示し、(1)広い範囲の男子に対する選挙権の付与、(2)定期的な議会召集、(3)恣意的逮捕の禁止と法の下の平等、(4)一定範囲での信教の自由などを要求した。「水平」という名称は、身分や特権による垂直的な序列を否定し、自由な市民のあいだの水平的な関係をめざす姿勢を象徴している。

指導者と組織

水平派は、明確な政党組織というより、パンフレット・小冊子・集会を通じてゆるやかにつながった政治運動であった。中心人物には、兵士出身の John Lilburne、急進的なパンフレットを多数執筆した Richard Overton、寛容を強調した William Walwyn などがおり、ロンドンの職人層や市民層と、新興の常備軍である新型軍の兵士たちに支持基盤を持った。彼らは署名運動や請願、印刷物を駆使して世論に訴え、議会と軍の指導部に圧力をかけようとしたのである。

新型軍との関係

水平派の影響力がもっとも強く現れたのは、オリバー・クロムウェルらが率いる新型軍の内部であった。徴兵ではなく志願制を基本とした新型軍の兵士は、識字率が高く、宗教的にも政治的にも自立した者が多かったため、パンフレットを通じて水平派の急進的主張を受け入れやすかった。軍内部には Agitators と呼ばれる兵士代表が選出され、彼らの一部は Levellers の要求を支持し、兵士たちの権利や戦後処遇の改善を求めて、軍指導部との交渉に参加した。

プトニー討論と政治的対立

1647年に行われた Putney Debates(プトニー討論)は、水平派の思想が公開の場で議論された重要な出来事である。ここでは、新型軍の兵士代表と、クロムウェルや Ireton ら指導部が、選挙権や財産権、人民主権をめぐって激しく論争した。水平派はほぼすべての自由民に選挙権を認めるべきだと主張したのに対し、指導部は財産を有する者に限定すべきだと反論した。この討論は結局、軍指導部の主張が優勢となり、独立派の現実的な路線が採用されたが、近代的な民主主義思想の萌芽が露わになった場として重要視される。

共和政とコモンウェルス期の活動

国王チャールズ1世の処刑と王政廃止ののち、イングランドは共和政としてのコモンウェルス体制へと移行した。しかし、この新体制の実際の権力は、軍指導部と一部の議会エリートに集中しており、水平派が求めた広範な民衆参加や急進的な改革は実現しなかった。そこで水平派は、国王処刑後もパンフレットと請願運動を通じて、特権の縮小や負担の軽減、恣意的な軍事統治への批判を続け、クロムウェル政権に対する民衆側からの反対勢力の一つとなったのである。

反乱・弾圧と衰退

水平派の運動は、1649年の新型軍兵士の反乱を契機に急速に弾圧された。とくに Burford で起こった兵士たちの反乱は、Levellers の影響を強く受けたものとみなされ、クロムウェルは軍紀維持の名目でこれを鎮圧し、指導的兵士の処刑や投獄が行われた。その後、ロンドンの指導者たちも相次いで逮捕・拘束され、組織的な運動としての水平派は事実上崩壊した。ただし、彼らのパンフレットは読み継がれ、政府批判や宗教的寛容を訴える声は地下的に残り続けたと考えられている。

思想史上の評価と意義

水平派は短期間で消えた運動であるが、その主張は近代以降の民主主義・自由主義思想と深く響き合っている。彼らの人民主権論、議会の代表性を重視する姿勢、権力の委任と統制に関する議論は、後世の共和主義や市民的自由の議論の先駆とみなされる。また、財産を基準とする制限選挙を前提としていたとはいえ、広い範囲の民衆に政治参加を認める方向を打ち出した点で、封建的特権秩序の転換をうながしたといえる。ピューリタン革命ネースビーの戦いなどとともに理解することで、近代イギリスの政治文化の形成過程を立体的にとらえることができる。