ネースビーの戦い|議会派優位を決した戦い

ネースビーの戦い

ネースビーの戦いは、1645年6月にイングランド中部ノーサンプトンシャーの村ネースビー近郊で行われた内戦の決定的会戦である。これはピューリタン革命(イギリス内戦)において、チャールズ1世率いる王党派軍と、トマス・フェアファクスおよびクロムウェルらが指揮する議会派軍(新型軍)が激突し、議会派が圧倒的勝利を収めた戦いである。この敗北によって王党派は再建不能な打撃を受け、チャールズ1世の統治とイングランドの絶対王政は終局へと向かうことになった。

ネースビーの戦いの背景

17世紀前半のイギリスでは、国王チャールズ1世が議会を無視して課税を押し進めたこと、さらに国教会を通じて高教会的・親カトリック的とみなされる宗教政策をとったことから、清教徒(ピューリタン)を中心とする議会側の反発が高まっていた。スコットランドに対する祈祷書導入をめぐる紛争や、王が議会を11年間開かず専制的に統治したことなどが重なり、やがて短期議会長期議会の招集、さらにチャールズ1世と議会の対立激化を経て内戦が勃発した。

内戦初期、王党派は騎兵力に優れた王太子ルパートを擁し、しばしば戦場で優勢を占めた。しかし決定的勝利を得ることができず、戦争は長期化した。議会側では、地方軍や自警団的な部隊では王党派に対抗しきれないという反省から、全国レベルで統一編成された常備軍として新型軍が組織され、これが後にネースビーの戦いで真価を発揮することになる。

参戦勢力と戦場の状況

ネースビーの戦いにおいて王党派軍は、名目上チャールズ1世が総司令官であり、実際の指揮には王太子ルパートが大きな役割を果たした。王党派軍は熟練した騎兵を有していたが、兵站・歩兵の規律・装備の面で限界があった。他方、議会派は総司令官トマス・フェアファクスのもと、騎兵を率いるクロムウェルが頭角を現し、信仰心と規律に支えられた歩兵・騎兵からなる新型軍を整備していた。

戦場となったネースビー周辺は、なだらかな丘陵地帯と開けた原野が広がる地形であり、騎兵の機動と歩兵の射撃線の展開に適していた。両軍は互いに高地を占めて陣を敷き、間に緩やかな谷を挟む形で対峙したとされる。こうした地形条件は、規律ある歩兵戦列と統制された騎兵運用を得意とする議会派に有利に働いたと解される。

戦いの経過

ネースビーの戦いは、早朝の布陣完了後、双方の砲撃と前進によって始まり、やがて騎兵突撃と歩兵同士の白兵戦へと展開した。王党派側はこれまでの戦いと同様、騎兵の突撃によって敵軍の一翼を崩し決戦を挑もうとしたのに対し、議会派側は歩兵戦列の持久力と、統制のとれた騎兵の反撃によってこれを吸収しようとした。

  1. 開戦時、王党派騎兵は議会派左翼に向け突撃し、初動では一定の成功を収めた。議会派左翼は押し込まれ、多くの兵が敗走したが、王党派騎兵は追撃に夢中になり、戦場の統制を失い始めた。
  2. その間に、議会派右翼の騎兵を率いるクロムウェルは慎重に機をうかがい、王党派左翼の騎兵を正面・側面から打ち破った。彼の騎兵は追撃に深入りせず、戦場へと迅速に引き返したことが重要であった。
  3. 中央では、議会派歩兵が密な射撃と槍(パイク)戦列によって王党派歩兵を押し返した。王党派は騎兵の支援を欠いたまま、次第に戦列が崩壊していった。
  4. 最終的に、クロムウェルの騎兵が戦場へ戻り、王党派中央・後衛を側面から攻撃したことで、王党派軍は総崩れとなり、多数の捕虜と武器弾薬、軍旗、さらには王の書類を含む輜重が議会派の手に落ちた。

結果と歴史的意義

ネースビーの戦いの敗北により、王党派は主力野戦軍の大部分を失い、戦略的主導権を完全に喪失した。特に議会派に押収された王の書簡・文書類からは、チャールズ1世がカトリック諸国やアイルランド勢力と結んで議会派を抑え込もうとしていたことが暴露され、王に対する不信と反感が一層強まった。これらの文書は議会によって宣伝に利用され、チャールズ1世を「国民の自由を脅かす専制君主」として描く格好の材料となった。

軍事的にも、王党派はもはや決定的反撃を行いうる兵力を失い、オックスフォードなど残存拠点の防衛に追われるだけになった。一方で議会派の新型軍は、勝利によって士気と正当性を高め、内戦終結に向けた主導権を握った。こうしてネースビーの戦いは、内戦の帰趨をほぼ決定づけた転換点として位置づけられる。

チャールズ1世の行動とその後の展開

敗北後、チャールズ1世は辛うじて戦場を脱出したが、王党派の支配地域は急速に縮小した。最終的に彼はスコットランド軍に投降し、その後ロンドンに引き渡されることになる。長引く内戦と財政負担、宗教対立を背景に、議会内部でも独立派王党派との妥協を模索する勢力が割拠したが、クロムウェルら軍の指導者は、チャールズ1世を再び政治の中心に戻すことはイングランドの自由を危険にさらすと考えた。

最終的にチャールズ1世は反逆罪で裁かれ、1649年に処刑される。この国王処刑と共和政の樹立は、ピューリタン革命の頂点であり、君主権と議会・国民の権利の関係をめぐる近代政治史上の重要な画期と評価されている。その前提となる軍事的決着を準備した点で、ネースビーの戦いはイングランド近世史の核心的事件である。

新型軍と近代軍制の展開

ネースビーの戦いは、軍事史の観点からは近代的常備軍の力を示した戦いとしてもしばしば言及される。議会派の新型軍は、信仰に裏づけられた規律と、歩兵・騎兵・砲兵の組織的運用を特徴とし、なかでも鉄騎隊と呼ばれた騎兵部隊は、追撃に深入りせず戦場の統制を維持する点で従来の騎士的突撃とは異なる性格を持っていた。これは、身分的名誉よりも軍事的合理性と統制を重視する近代的軍隊の萌芽であるといえる。

このように、ネースビーの戦いは単なる一会戦にとどまらず、ピューリタン革命の政治的帰結、イングランドにおける王権と議会の力関係の変化、さらにはヨーロッパにおける近代軍制の発展といった広範な文脈と結びついて理解されるべき出来事である。