プロイセン
プロイセンは、近世から近代にかけて北ドイツとバルト海沿岸に成立した国家であり、やがてドイツ統一を主導してドイツ帝国の中心となった王国である。その起源は十字軍運動の一環としてバルト地方に進出したドイツ騎士団国家にさかのぼり、のちにブランデンブルク選帝侯家ホーエンツォレルン家の下で強力な官僚制と常備軍を備えた「軍事国家」として発展した。
成立の背景と名称
プロイセンという名称は、本来はバルト系の古プロイセン人が居住していた地域名に由来する。この地に13世紀に進出したドイツ騎士団は、征服とキリスト教化を進めて騎士団国家を築き、バルト海沿岸に城塞都市を連ねた。騎士団国家はやがてポーランド王国との抗争に敗れて西部を喪失し、残った東部領が「プロイセン公国」としてポーランド王の宗主権下に置かれることになった。
ブランデンブルク=プロイセンの形成
16世紀後半、ホーエンツォレルン家がプロテスタントに改宗すると、宗教改革と領邦教会制度の進展のなかで、家門の支配はブランデンブルク選帝侯領とプロイセン公国の両方に及ぶようになった。1618年、選帝侯がプロイセン公位も継承した結果、両領は同一君主が支配する「ブランデンブルク=プロイセン」と呼ばれる複合国家となり、三十年戦争を通じて勢力を拡大した。
軍事国家としての発展
17世紀後半の大選帝侯フリードリヒ・ヴィルヘルムは、常備軍の創設と徴税制度の整備によって、分散した領土を軍事力と官僚制で結びつけた。農村ではユンカーと呼ばれる地主貴族が農民を支配しつつ将校団として軍に奉仕し、都市では官僚が君主に直属して統治にあたった。このような仕組みによって、プロイセンは人口規模に比してきわめて大規模な軍隊を維持する「軍事国家」となった。
フリードリヒ大王と18世紀の拡張
1701年、選帝侯フリードリヒ3世は皇帝の認可を得てケーニヒスベルクで戴冠し、「プロイセン王」を称した。とくにフリードリヒ2世、いわゆるフリードリヒ大王の時代には、シュレジエン戦争と七年戦争を通じて領土を拡大し、プロイセンはヨーロッパ列強としての地位を確立した。大王は啓蒙専制君主として宗教寛容や学芸保護にも努め、哲学者や音楽家を保護しながら、軍事と文化の双方で国家の威信を高めた。
- シュレジエン戦争でオーストリアから工業地域シュレジエンを獲得した。
- 七年戦争では一時窮地に立たされながらも講和に持ち込み、大国の地位を維持した。
ドイツ統一とプロイセン王国
19世紀に入ると、ナポレオン戦争での敗北はプロイセンに軍制・行政・教育制度の大改革を促した。やがて首相ビスマルクのもとで、同国はデンマーク戦争、普墺戦争、普仏戦争という三つの戦争を通じて北ドイツを統合し、フランス第二帝政を打ち破ることでドイツ帝国の成立を主導した。1871年にヴェルサイユで戴冠したドイツ皇帝は同時にプロイセン王でもあり、帝国の領土と人口の大部分はプロイセン王国が占めていた。
第一次世界大戦とプロイセンの終焉
しかし第一次世界大戦の敗北と1918年のドイツ革命により、ホーエンツォレルン家の君主制は廃止され、プロイセン王国もヴァイマル共和政のもとで「プロイセン自由州」へと再編された。ナチ党政権下では地方自治が解体され、第二次世界大戦後には連合国の決定によってプロイセンは反軍国主義・反ナチズムの象徴として法的にも解体され、その旧領はポーランドやソ連、連邦共和国などに分割された。
社会と文化
プロイセン社会の特徴としては、ユンカー地主貴族の強い地位、義務教育制度の早期導入、プロテスタント的な勤勉・規律・服従の価値観がしばしば挙げられる。これらは近代的官僚制と結びつき、効率的だが硬直した国家像として記憶されている。19世紀後半には、こうした国家像はドイツ思想史のなかで批判や再評価の対象となり、たとえばニーチェやサルトルの議論にも、近代国家と個人の自由の緊張という形で影響を与えたと解釈されることがある。また、産業化の進展とともに電気工学などの技術も発展し、その単位であるボルトのような概念が日常生活に浸透していったことも、近代国家プロイセンの変容を象徴している。
歴史上の評価
プロイセンは、規律ある行政と教育制度を通じて近代国家形成に大きな役割を果たした一方、軍国主義や権威主義の温床となったとの批判も受けてきた。ヨーロッパ国際政治における勢力均衡、ドイツ統一、二度の世界大戦といった文脈のなかで、その功罪を多面的に捉えることが、現在の歴史研究において重視されている。
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