イランのシーア派
イランにおけるシーア派は、人口多数を占める宗教共同体であり、とりわけ十二イマーム派が主流である。一般にイランのシーア派と呼ばれる伝統は、初期イスラーム期のアリー家への敬慕に源流をもち、16世紀にサファヴィー朝が国教化してから全国的に制度化が進んだ。神学・法学・儀礼・巡礼、そして都市の宗教空間が有機的に結びつき、現代にいたるまで宗教生活と社会秩序を支える枠組みを形成してきたのである。
歴史的形成
前近代のイラン高原では、アリー家を敬う土着的傾向が各地に点在したが、決定的転機は1501年にイスマーイール1世が即位し、十二イマーム派を国教としたことである。これにより、レバノンなどから学者が招かれ、イスファハーン・コム・マシュハドなどの学術中心が整備された。サファヴィー期の布教と司法・教育の制度化は、都市と地方の宗教ネットワークを統合し、同時にスンナ派との境界意識を強めた。以後、王朝の興亡を超えてシーア派は「共同体の記憶」を担い、政治的正統性の言説とも深く絡み合うようになった。
宗派と神学
十二イマーム派は、アリーから連なる十二人のイマームを正統指導者とみなし、とくに第十二イマームの隠れ(ガイバ)と再臨観を中心教義とする。啓示と理性の調和を志向する法源論は、啓典・スンナ・合意・理性を枠組みに据え、学者の法学的推論を重視する。これに対し、同じシーア派系統でもイスマーイール派やザイド派は教義・権威構造が異なるが、イランでは前者が思想史上の影響を残しつつも、社会的多数は十二イマーム派で占められてきた。
法学と宗教権威
近世以降、法学内部ではウスーリー派とアフバリー派の論争が繰り返され、最終的にウスーリー派が優位となった。これにより、熟達した法学者(ムジュタヒド)と信徒の模倣(タクリード)関係、すなわち「マルジャ・エ・タクリード」の制度が確立し、学者層は財産寄進や商人層の支援を背景に社会指導層を担った。学術機関はコムやマシュハドのホウゼに集約され、祭祀・教育・司法が連動する宗教公共圏を形成した。
ウスーリーとアフバリー
ウスーリーは理性による法解釈と推論を重視し、時代状況に応じた応答可能性を確保した。他方アフバリーは伝承依拠を徹底し、解釈の恣意性を警戒した。前者の優位化は、急速な社会変動に対する規範供給力を高め、学者の社会的役割を制度的に強める結果となった。
儀礼・聖地と巡礼
宗教生活の核心はフサイン殉教を悼むアーシューラーであり、朗誦・行列・タズィーエ(宗教劇)などの悲嘆儀礼が共同体の連帯を強める。国内の主要聖地はマシュハドのイマーム・レザー廟とコムのファーティマ・マスーメ廟で、国外ではナジャフやカルバラーへの巡礼が盛んである。これらの聖域は学術と福祉の拠点でもあり、寄進と巡礼経済が地域社会を潤してきた。
国家と政治
サファヴィー朝期の国教化は、王権の正統性と宗教権威の結合を促し、近代以降もその遺産が政治文化に影を落とした。カージャール期のタバコ・ボイコット運動や立憲革命では学者と商人が連帯し、公共性の新しい地平を切り開いた。パフラヴィー期の世俗化は宗教界の反発を招き、1979年の革命では宗教的語彙が政治秩序の再編に動員された。体制の下で宗教監督機関は制度化されつつ、市民社会との緊張関係も持続している。
憲法革命とウラマー
1905-11年の立憲革命では、シャリーアと世俗立法の関係が焦点化した。著名な学者は議会の正統化に寄与しつつ、宗教審査の範囲をめぐる議論を主導した。以後、公共圏での宗教言説は、近代的な代表制・法の支配と複雑に交錯し続けている。
社会・文化とアイデンティティ
シーア派的世界観は、ペルシア語文学のモチーフ、墓廟建築、装飾芸術、宗教行列の空間演出にまで浸透した。都市のハスィーニーヤ(集会所)やモスクは、講義・福祉・紛争調停の場としても機能し、地域共同体の自律性を支えた。商人層と宗教指導者の歴史的連携は、寄進と市場倫理を媒介に、宗教的価値と経済活動を結びつけてきた。
地域関係と国際的連関
イラク・レバノン・バーレーン・アゼルバイジャンなどとの宗教ネットワークは、学術交流や巡礼によって維持される。他方で、中東政治の対立は宗派間緊張を生みやすく、対話・共存の枠組みが常に問われる。イランの経験は、宗教伝統が国家と社会の間でどのように再解釈されるかを示す重要な事例であり、比較史の視座からも広い示唆を与える。
関連事項と用語集
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イスラーム世界における権威の問題:預言者後継者観と共同体形成の相互作用。
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サファヴィー教団:スーフィー教団としての起源と王朝化の過程。
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アーシューラー・タズィーエ:悲嘆儀礼と地域文化の統合装置。
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ガイバ(隠れ)と再臨期待:共同体の時間意識を方向づける教義。
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マルジャ・エ・タクリード:信徒の模倣と法学権威の制度。
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ワクフ(寄進)と宗教経済:聖域・教育・福祉を支える仕組み。
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学術中心:コム・マシュハドのホウゼと知の伝達。
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境界と共存:スンナ派との歴史的関係と対話の努力。