閔妃|朝鮮近代化を主導した王妃

閔妃

閔妃(明成皇后)は、李氏朝鮮末期に在位した高宗の王妃であり、のち大韓帝国の皇后として知られる人物である。彼女は名門・閔氏の出身で、王権を握ろうとする大院君と鋭く対立しつつ、同族勢力を背景に政局の主導権を握った。日本の対朝鮮進出が強まるなかで、清やロシアなど列強との均衡外交を模索したが、最終的には日本公使館員や親日派勢力による乙未事変で暗殺され、近代朝鮮史に大きな衝撃を与えた人物として記憶されている。

生涯と出自

閔妃の本名は閔載寧で、名門・驪興閔氏の一族として1851年に生まれたとされる。幼くして両親を失い、生活基盤は必ずしも強固ではなかったが、血統の高さと政争に巻き込まれにくい境遇が評価され、1866年頃、高宗の妃として迎えられた。これにより、彼女の一族は宮中での地位を急速に高め、やがて王権を支える一大勢力となる。彼女が政治の表舞台に立つ背景には、朝鮮が内外ともに不安定化しつつあった19世紀後半の状況があった。

大院君との対立

当初、朝政の実権は高宗の父である大院君が掌握していた。大院君は財政改革や軍制整備を進める一方で、キリスト教や外来勢力に対して強硬な攘夷政策を取った。これに対し、閔妃は自らの一族を重用し、王権を国王夫妻のもとへ取り戻そうとしたため、しだいに大院君と鋭く対立した。やがて宮廷クーデタによって大院君は一時失脚し、閔氏一族が中枢を占める体制が築かれたが、この権力構造が後の政争と対外危機の引き金ともなった。

開国と列強の進出

19世紀後半、朝鮮は西欧列強と日本から開国を迫られた。1866年のシャーマン号事件などを機に外国船との衝突が増え、やがて日本は江華島事件を口実として朝鮮に圧力を加える。1876年に結ばれた江華条約日朝修好条規)により朝鮮は事実上の開国に踏み切り、以後、清・日本・ロシア・欧米諸国が利権を争う「朝鮮問題」が本格化した。閔妃と閔氏政権は、こうした状況のなかで伝統秩序を守りつつ近代国家への対応を迫られたのである。

開化派・事大党との関係

開国後の朝鮮では、近代化と独立強化を目指す開化派と、従来どおり清に依拠しようとする事大党など、複数の政治勢力が対立した。閔妃は基本的に清を後ろ盾としつつも、一方的な従属ではなく王朝の主権を守る姿勢をとったとされる。1884年には金玉均朴泳孝開化派が甲申政変を起こし、日本の支援のもと政権奪取を図ったが、清軍の介入により失敗した。宮廷では以後、日本に対する警戒心が強まり、独立党などの親日・急進派勢力は排除されていった。

東学農民戦争と日清戦争後の外交

1894年の東学農民軍蜂起は、社会不安と改革要求の高まりを象徴していた。この鎮圧をめぐり清と日本が出兵し、やがて日清戦争に発展する。戦争の結果、日本は朝鮮に対する清の宗主権を否定し、朝鮮を「独立国」と位置づけた。だが日本の影響力が強まると、閔妃は今度はロシアとの接近を図り、日本の単独優位を牽制しようとした。こうした「均衡外交」の試みは、大国間の利害が交錯するなかで極めて危険な綱渡りであり、最終的に彼女自身の命を奪う結果につながった。

乙未事変(閔妃暗殺事件)

1895年、日本の公使三浦梧楼らは、親日派官僚や武装勢力と結託して宮廷クーデタを計画した。いわゆる乙未事変である。彼らは未明の景福宮に乱入し、ロシア寄りとみなされた閔妃を捜索して惨殺し、その遺体を宮中の庭で焼却したと伝えられる。この事件は朝鮮王朝にとってのみならず、日朝関係史においても決定的な転換点となり、日本に対する強い反発と国際的非難を引き起こした。

歴史的評価

閔妃の政治手腕については、派閥争いを激化させたという批判と、列強の圧力のなかで王朝と主権を守ろうとしたという評価が併存している。彼女の時代には、東学農民軍の反乱や洪景来の乱以降続く農村社会の疲弊、思想面では丁若鏞以来の実学的潮流など、複雑な要因が絡んでいた。そうしたなかで、閔妃は王朝の中枢に立ち、「自立」と「開国」のはざまで揺れる朝鮮の政治を体現した存在であったといえる。彼女の悲劇的な最期は、のちの朝鮮の開国後の植民地化過程を考えるうえでも重要な象徴として位置づけられている。