シャーマン号事件
シャーマン号事件は、1866年にアメリカ商船「ジェネラル・シャーマン号」が朝鮮半島西岸の大同江を遡航し、平壌付近で朝鮮側の攻撃を受けて焼き討ち・沈没した事件である。朝鮮王朝の強固な鎖国政策と、欧米列強の通商要求が正面から衝突した最初期の事例の一つであり、朝鮮社会内部の動揺と対外不信を深めるとともに、のちの辛未洋擾や江華島開国につながる一連の対外危機の出発点として位置づけられる。
19世紀半ばの朝鮮と東アジア国際秩序
19世紀半ばの朝鮮王朝は、儒教的秩序と華夷観を基盤とした伝統的な対外関係を維持し、清との冊封関係を軸に周辺世界を認識していた。他方で、アヘン戦争以降の清の敗北や、幕末日本が日米修好通商条約や不平等条約によって開国を余儀なくされた過程は、朝鮮にとって対外的脅威として強い警戒を呼び起こした。こうした状況は、東アジア全体の秩序変動としてとらえることができ、のちに東アジア国際秩序の再編と呼ばれる流れの前段階であったと言える。
国内的には、19世紀前半からの農村の疲弊や反乱の頻発、思想界における実学思想の興隆など、すでに朝鮮王朝の危機と呼びうる兆候が存在していた。洪景来が主導した農民反乱洪景来の乱や、改革的儒者丁若鏞による社会批判は、朝鮮社会が内側からも変動圧力にさらされていたことを示している。このような内憂外患の状態のなかで、西欧・アメリカの商船が朝鮮沿岸に接近し始めたことが、シャーマン号事件の遠因となった。
事件の発端と経過
1866年、アメリカ国旗を掲げた「ジェネラル・シャーマン号」は、中国との交易経験を背景に、朝鮮でも通商を開こうとして大同江を遡航したとされる。朝鮮側官吏は法に基づき入港を拒否し、沿岸に停泊しての交易を求めるよう再三警告したが、船側はこれを無視して平壌方面への前進を続けたと伝えられる。途中で現地住民との摩擦が生じ、食糧や物資の強制的な徴発があったとも言われ、緊張は急速に高まった。
- 現地官吏による退去勧告の無視
- 物資徴発や通訳拘束と伝えられる行為
- 住民・官兵側の攻撃決意の形成
平壌城下に近づいた船に対し、朝鮮側は最終的に武力行使に踏み切る。火を放った小船を突入させるなどして「ジェネラル・シャーマン号」を焼き討ちし、乗組員は全員が殺害されたとされる。こうしてシャーマン号事件は、沿岸警備と治安維持の名目で朝鮮側が外国船を武力排除した事件として、国内では「外敵撃退」の成功例として喧伝されることになった。
大院君の対外政策と国内への影響
事件当時、朝鮮王朝では高宗の父である興宣大院君が摂政として実権を掌握していた。大院君は、カトリック弾圧などに見られる「衛正斥邪」的な姿勢を鮮明にし、西欧勢力を「邪教」「夷狄」とみなして排除する政策をとった。シャーマン号事件で外国船を撃退したことは、この排外政策の正当性を裏づける事例として利用され、朝鮮内部では「天朝の徳によって夷船を退けた」という物語が強調された。
しかし、外国勢力の立場から見ると、事件は自国民が殺害された重大な「暴挙」と受け止められた。とくにアメリカ政府は、通商要求を認めない朝鮮側の姿勢とあわせて、後日の報復行動の名分として事件を記憶することになる。国内的には、外敵撃退の成功が一時的に体制の威信を高めた一方で、対外的には孤立と緊張を深める結果となり、平和的な条約交渉の機会を自ら狭めることにもつながった。
アメリカの反応とその後の国際関係
アメリカは即時の大規模報復には踏み切らなかったものの、1860年代後半から朝鮮への調査・接近を続け、1871年にはいわゆる辛未洋擾と呼ばれる武力遠征を実施する。この遠征はシャーマン号事件における自国民殺害への報復と、通商条約締結の圧力を兼ねた行動であり、砲艦外交による開国要求という点で、同時期の日本や清に対する欧米列強のやり方と共通していた。
一方、日本は幕末に日米修好通商条約をはじめとする不平等条約を締結し、明治維新後には日清修好条規などを通じて清・朝鮮との関係を再編していく。さらに、琉球処分をめぐる琉球帰属問題や、台湾原住民殺害事件への出兵である台湾出兵、人身売買船をめぐるマリア=ルース号事件、ロシアとの樺太千島交換条約など、一連の外交・軍事行動を通じて、自らも列強の一角として朝鮮半島周辺に影響力を拡大していった。
このように、シャーマン号事件は一見すると局地的な武力衝突に過ぎないが、実際には朝鮮王朝の閉鎖的な対外姿勢と、西欧・日本を含む列強の進出が鋭くぶつかった象徴的事件であった。その衝撃は、朝鮮の対外政策を一層硬化させる一方で、列強側には「武力を背景とした通商開国要求」を正当化する口実を与え、のちの辛未洋擾や江華島条約締結、ひいては東アジアの勢力図の変容へとつながっていくのである。