大院君|朝鮮王朝末期の最高権力者

大院君

大院君は、19世紀後半の朝鮮王朝末期に登場した政治家であり、高宗の父として摂政を務めた人物である。正式には興宣大院君李昰応と呼ばれ、1860年代から1870年代にかけて、動揺する李氏朝鮮を立て直すために中央集権化と儒教秩序の回復をめざす政策を推し進めた。一方で、西洋列強や日本が東アジアに勢力を拡大していくなか、強硬な鎖国と排外政策をとったことで、開国派や外国勢力との対立を深め、のちの朝鮮王朝の危機へとつながる要因も生み出したと評価される。

生涯と時代背景

大院君は1820年代に李氏宗家の分家筋に生まれ、本来は王位継承から遠い立場にあった。しかし子の高宗が即位することで状況が一変し、幼少の王に代わって摂政として権力を掌握した。当時の朝鮮は、内政面では地方支配の弛緩や両班支配の腐敗、農民反乱の頻発など深刻な危機に直面し、思想的にも丁若鏞らの実学が提起した改革の課題を十分に解決できないまま停滞していた。対外的には、西洋列強や日本が東アジアへ進出し、清の宗主権体制や伝統的な朝貢秩序が揺らぎ、後に語られる東アジア国際秩序の再編の渦中に置かれていた。

内政改革と財政再建

大院君は、衰退した王権の権威を回復するため、まず内政と財政の立て直しに取り組んだ。地方に乱立していた書院を大幅に整理・撤廃し、既得権化していた両班勢力の影響力を抑え、中央政府への権力集中を図った。また税制の是正や不正官吏の処罰を通じて財政基盤を強化し、その資金をもって景福宮再建事業を推進した。景福宮再建は王権の象徴を復活させる事業であったが、一方で農民や庶民への負担も重く、地方社会の不満を高める側面もあったとされる。

  • 書院の整理・撤廃による地方両班勢力の抑制
  • 税制改革と汚職追及による財政の再建
  • 景福宮再建による王権権威の象徴的強化

対外政策と鎖国路線

大院君の対外政策の特徴は、徹底した鎖国と排外であった。彼はカトリックなど西洋宗教を「邪教」とみなし、1860年代には大規模な迫害を行って宣教師や信徒を処刑し、それがフランス軍の出兵を招いた。さらに西洋船や米船に対しても砲撃などの強硬策を取り、平壌付近でのシャーマン号事件などを通じて、「洋夷を斥ける」態度を内外に示した。このような政策は、短期的には伝統的秩序と主権を守ろうとする試みであったが、長期的には世界情勢の変化に対応できず、列強との溝を深めてしまったと評価される。

閔氏勢力との対立と失脚

高宗の妃となった閔氏(明成皇后)の一族が宮廷内で勢力を伸ばすと、保守的な路線をとる大院君と、清との関係を保ちつつも漸進的な開国を志向する閔氏グループの対立が深まった。日本や清が朝鮮への影響力拡大をめざすなか、日本との条約締結問題や通商開国をめぐる路線対立が表面化し、最終的に1873年頃、閔氏勢力は高宗に働きかけて大院君を政治の中枢から退けた。その後、日本との関係は江華島事件を契機に変質し、やがて日清修好条規や不平等条約体制を通じて、朝鮮は東アジアの列強抗争に巻き込まれていくことになる。

壬午軍乱と晩年の政治介入

失脚後も、大院君は完全に政治から退いたわけではなかった。1882年の壬午軍乱では、旧式装備や待遇に不満を持つ軍兵が蜂起し、その混乱の中で大院君は一時政権復帰を試みたが、最終的には清軍により北京へ連行され、清の監視下に置かれたとされる。その後も甲申政変や日清対立の激化、さらには日本の台湾出兵琉球帰属問題、ロシアとの樺太千島交換条約など、列強の動きが朝鮮半島周辺を取り巻くなかで、彼は保守派の象徴としてたびたび名前が取り沙汰されたが、もはや主導的役割を担うことはできなかった。

歴史的評価と東アジアへの影響

歴史学において大院君の評価は分かれる。国内政策の面では、王権の権威回復や財政再建、書院整理などを通じて、腐敗した支配構造の是正を図った点が一定の評価を受ける。他方で、急速に変容する国際社会において徹底した鎖国と排外策を選び、開国のタイミングを逃したことは、朝鮮をより不利な条件で外圧にさらす結果を招いたという批判も強い。彼の統治は、伝統的な朝貢秩序のなかで主権と儒教秩序を守ろうとした最後の試みであり、その限界が露呈した時期でもあった。こうした過程は、のちの朝鮮王朝の危機や日本・清・ロシアなどが競合する東アジア国際秩序の再編を理解する上で不可欠な前提となっている。