独立党
独立党は、19世紀後半の朝鮮王朝末期に登場した改革派政治勢力であり、清への従属からの離脱と主権国家としての自立を掲げたグループである。日本の世界史や東アジア史では、しばしば開化派の一派、あるいはその別名として扱われ、清への事大を唱えた事大党と鋭く対立した。独立党は、西欧や日本の制度を学びながら、近代的官僚制や常備軍の整備、身分制の打破などを通じて朝鮮を近代国家へ転換させようとした点に特徴がある。
成立の背景
19世紀前半、朝鮮王朝は内政・財政の疲弊に加え、地方反乱や農民騒擾が相次ぎ、すでに大きな動揺の中にあった。代表的な事件としては、地方社会の矛盾が爆発した洪景来の乱が挙げられる。さらに実学思想家丁若鏞らが提起した改革構想は十分に実現せず、王朝の立て直しは遅れたままであった。19世紀後半に入ると欧米列強や日本が東アジアへ進出し、朝鮮王朝の危機が一気に深刻化する。このなかで、朝鮮は日本との江華条約(日朝修好条規)を結んで開国に追い込まれ、従来の朝貢体制が揺らぎ始めた。
朝鮮の開国と政局の変化
江華島事件を契機とする朝鮮の開国は、清を宗主国とする伝統的な冊封秩序と、列強が進出する条約体制とが衝突する転換点となった。宮廷内部では、従来どおり清に依存して王朝の安定を図ろうとする事大党と、新しい国際環境に対応して制度改革を進めようとする開化派の対立が先鋭化した。ここで、開化派のうちとくに「朝鮮は清から独立した対等の国家として生きるべきだ」と主張したグループが独立党と呼ばれるようになる。
独立党の主な人物
独立党の中心には、日本や西欧に留学・視察し近代国家の制度を直接学んだ若手官僚・知識人が多かった。代表的人物としては、甲申政変を主導した金玉均(キム・オッキュン)や朴泳孝(パク・ヨンヒョ)などが挙げられる。彼らは、日本の明治維新をモデルとして急進的な改革をめざし、財政・軍事・行政の近代化によって朝鮮を独立自強の国家へと転換させようとした。また、彼らの思想的背景には、実学の系譜や、危機に直面した王朝を立て直そうとする知識人層の危機意識があった。
思想と政策目標
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独立党は、第一に清との宗属関係を否定し、朝鮮を主権国家として位置づけることを目標とした。そのため、清軍の内政干渉を排し、対外関係を「独立した一国家」の外交として再編しようとした。
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第二に、身分制社会を改めることを重視した。彼らは、両班中心の政治構造を批判し、能力に基づく官吏登用制度、税制改革、近代的法制度の導入を構想した。こうした構想は、のちに近代国民国家形成へとつながる要素を含んでいた。
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第三に、軍制改革と産業育成が掲げられた。近代的な常備軍の整備は、列強や周辺諸大国からの独立を守る手段と考えられ、同時に経済面では商工業の振興や近代的交通網の整備が構想された。これらは、のちの朝鮮半島における鉄道建設や工業化とも関連していく。
事大党との対立
独立党に対抗した事大党は、清との伝統的な主従関係を維持しつつ、王朝の安定を図ろうとした保守的勢力であった。事大党は、清の軍事力と国際的地位に依存することで列強の圧力を抑えられると考え、急激な制度改革には慎重であった。これに対し独立党は、清への依存こそが朝鮮の自立を妨げているとみなし、清軍の撤退と内政への不干渉を強く求めた。この対立は、宮廷内権力闘争にとどまらず、東アジアの国際環境とも密接に結びついていた。
甲申政変と挫折
1884年、独立党の急進派は日本公使館の支援を受けてクーデタを決行し、甲申政変を引き起こした。これは短期間で近代改革を一挙に進めようとする試みで、身分制の廃止や官制改革などが布告されたが、清軍の介入によってわずか3日で鎮圧された。失敗の結果、多くの独立党指導者は日本への亡命や処刑に追い込まれ、勢力としては大きく挫折する。ここには、国内基盤の弱さとともに、日本の利害と結びついた改革路線がもつ限界という問題も含まれていた。
大院君・高宗との関係
19世紀後半の宮廷政治では、国王高宗とその父大院君の権力関係も重要であった。大院君は当初、内政改革と攘夷政策を進めつつ清との関係を重視したが、開国以後は権力基盤をめぐり開化派・事大党双方と複雑な対立と協調を繰り返した。独立党の改革構想は、高宗・大院君の権力運営や宮廷派閥の力学に左右され、十分な支持を得られないままクーデタという形で噴出した側面がある。
独立協会・東アジア国際秩序との関連
甲申政変後、朝鮮は日清両国の角逐のなかに組み込まれ、やがて日清戦争へと至る。その過程で、1890年代には独立党の思想的系譜を継ぐ政治結社として独立協会が活動し、国民的な自立意識や近代的議会政治を唱えた。独立協会はのちに弾圧されるが、朝鮮が伝統的冊封秩序から離脱し、新たな条約体制・帝国主義体制のなかで位置づけられていく過程は、まさに東アジア国際秩序の再編そのものであった。
歴史的評価
独立党は、短期的には甲申政変の失敗によって挫折し、日本への依存という側面から批判も多い。しかし、清からの形式的・実質的独立をめざし、近代的な主権国家の構想を明確に掲げた点で、のちの朝鮮民族運動や独立運動の先駆として評価される。また、その急進性と挫折の経験は、改革が国内社会の支持基盤と結びつかなければ持続しえないこと、そして帝国主義列強に依存した改革が新たな従属を生みうることを示す歴史的教訓として考察されている。