袁世凱|中華民国の初代大総統

袁世凱

袁世凱は、清末から民国初期にかけて中国政治の中心に立った軍人・政治家であり、清朝の近代軍隊である北洋軍を掌握し、辛亥革命を通じて清朝崩壊と中華民国成立に決定的な役割を果たした人物である。同時に、共和国の大総統として権力を集中させ、最終的には皇帝即位を企てて挫折し、北洋軍閥時代の混乱を招いたことでも知られる。

出自と若年期

袁世凱は1859年、河南省項城の地方武人層の家に生まれた。科挙に秀でた士大夫ではなく、実務や軍事に通じた一族に育った点が特徴である。若くして旧来の八旗・緑営とは異なる新式軍事訓練に関心を示し、やがて李鴻章のもとで北洋系の勢力と結びつき、近代的軍人としての経歴を歩み始めた。

朝鮮駐在と北洋軍の形成

袁世凱は19世紀末、清朝の宗主権下にあった朝鮮に駐在し、近代式軍隊の創設と内政干渉に深く関与した。この経験は、のちに清朝本土で新式軍隊を編成・指揮する基盤となる。日清戦争後、彼は直隷総督兼北洋大臣の地位を通じて新建陸軍を整備し、エリート部隊としての新建陸軍を掌握することで、清朝末期における最強の軍事勢力を築き上げた。

戊戌政変と清末立憲改革

1898年の変法運動では、光緒帝と改革派が進めた近代化構想に対し、袁世凱は最終的に西太后側につき、改革派の動きを密告したと伝えられる。これにより戊戌の政変が起こり、変法は挫折したが、袁世凱自身は西太后からの信任を高め、北洋軍を背景に政治的発言力を拡大した。その後の清末新政では、伝統的官僚登用制度の改革として科挙の廃止が断行され、さらに立憲制導入の枠組みとして憲法大綱が公布されるなど、彼の勢力範囲で近代国家への転換が進められた。

辛亥革命と中華民国成立

1911年の武昌蜂起に端を発した辛亥革命で、各地の新軍が次々に挙兵すると、清朝廷は一時退隠していた袁世凱を呼び戻し、北洋軍を率いて事態収拾を図らせた。中国同盟会を率いる孫文ら革命派と清朝廷のあいだで調停を行った結果、宣統帝の退位と共和国体制への移行が決定し、中華民国が成立する。南京の臨時政府で大総統となっていた孫文は、統一達成を優先して職を譲り、袁世凱が北京で臨時大総統に就任した。

大総統としての権力集中

袁世凱は北京政府の大総統として、北洋軍を背景に強権的統治を進めた。議会や政党、とりわけ三民主義を掲げる国民党勢力を抑え込み、国会解散や憲法停止などを通じて個人独裁に近い体制を築こうとした。また外国からの借款を積極的に導入し、財政基盤の確保を図ったが、それは列強による中国支配強化を招き、清末から続く利権回収運動の流れとは対照的な結果となった。

皇帝即位と挫折

1915年、袁世凱は自ら帝制復活を唱える世論を組織させ、「中華帝国皇帝」として即位しようとした。この挙は共和制の理念に反するものとして国内外から激しい批判を受け、雲南省をはじめとする諸省では護国戦争が勃発し、反袁の独立運動が広がった。帝制運動は短期間で破綻し、袁世凱は皇帝号を放棄したのち1916年に病没する。

歴史的評価と影響

袁世凱は、清末の軍制改革や立憲準備を推進した近代官僚であると同時に、革命勢力の理想を裏切り、自らの権力維持のために共和制を形骸化させた人物として評価が分かれる。彼の死後、北洋軍は群雄割拠する軍閥へと分裂し、中国は北洋軍閥の割拠時代に入った。こうした過程は、海外にいた華僑の動員や中国革命と華僑の展開、さらには孫文らによる再度の革命運動へとつながり、近代中国政治の枠組みを大きく規定することになった。