戊戌の政変|変法挫折と清朝保守化

戊戌の政変

戊戌の政変は、清朝末期の1898年に起こった宮廷クーデタであり、光緒帝のもとで進められていた近代化改革(戊戌変法)を、西太后ら保守派が武力と人事権を用いて覆した事件である。改革派官僚が失脚・処刑され、光緒帝は幽閉され、西太后が再び実権を掌握したことで、清朝の立憲的改革の可能性は大きく後退し、のちの辛亥革命へとつながる政治危機が深まった。

背景―日清戦争後の危機と戊戌変法

19世紀末の清は、アヘン戦争やアロー戦争、さらに日清戦争の敗北によって列強からの侵食を受け、領土割譲や勢力圏設定を許し、国家の存立そのものが脅かされていた。こうした中で、光緒帝は康有為・梁啓超ら進歩的知識人の建言を受け、政治・教育・軍事・産業などを全面的に改める戊戌変法に踏み切った。科挙制度の改革や官僚機構の簡素化、近代的学校の設立、鉄道・鉱山開発の奨励など、短期間に広範な制度改革が打ち出されたが、これは皇帝権を利用して既存の官僚・貴族勢力を弱体化させる性格を持っていたため、宮廷の保守派から強い反発を招いた。

改革派と保守派の対立

改革を主導したのは光緒帝のほか、康有為・梁啓超・譚嗣同などの改革派知識人であった。彼らは立憲君主制を志向し、中央集権の再編と富国強兵を通じて列強に対抗しようとした。一方、西太后を中心とする宮廷の保守派や八旗貴族、既得権益を持つ高級官僚は、改革によって自らの権力基盤が脅かされることを恐れた。特に、西太后はこれまで摂政として政治の実権を握ってきたが、光緒帝が自立的に政務を行い、改革派と結びつくことに強い危機感を抱き、改革派の排除を図るようになった。

政変の経過

1898年9月、改革派は軍事力を背景に保守派を抑えようとし、一部の将軍に接近して西太后を退位させる計画を練ったとされる。しかし、重要な新軍を指揮していた袁世凱がこの動きを西太后側に密告したことで、形勢は一気に逆転した。9月21日、西太后は突然宮廷に復帰してクーデタを断行し、光緒帝を瀛台に幽閉して政治的権限を剥奪した。これが戊戌の政変と呼ばれる出来事であり、わずか約100日に及んだ改革はここで強制的に終止符を打たれた。

戊戌六君子の処刑

政変後、西太后と保守派は改革派の中心人物を弾圧し、譚嗣同をはじめとする6人の急進改革派官僚・知識人を処刑した。彼らは「戊戌六君子」として知られ、立憲改革を命がけで追求した殉難者として後世まで語り継がれている。一方、康有為と梁啓超は海外への亡命に成功し、以後は日本などを拠点として清朝改革や立憲運動、さらに革命運動に影響を与える宣伝活動を展開していった。

結果と政治的影響

戊戌の政変によって、光緒帝は名目上の皇帝にとどまり、実権は西太后に集中した。戊戌変法で打ち出された急進的な制度改革はほとんど取り消され、一部の近代化政策のみが限定的に継続されたにすぎない。これにより、清朝内部から主導される漸進的な立憲改革の道は大きく後退し、知識人や新興ブルジョワ層の間には、皇帝を頂点とする体制に対する失望が広がった。やがて孫文らが指導する革命運動が力を増し、1911年の辛亥革命による清朝崩壊へとつながっていく。

思想・社会への影響

戊戌の政変は、単に一度の宮廷クーデタにとどまらず、近代中国における「立憲改革か、革命か」という選択の分岐点として位置づけられる。皇帝の権威を利用した上からの改革が挫折したことで、多くの知識人は「君主を頂点とする体制の枠内では近代国家への転換は不可能である」と認識するようになり、共和制や民族革命を志向する思想へ傾斜していった。また、戊戌変法とその挫折は、官僚制と宮廷勢力の利害が近代化の障害となる構図を鮮明にし、政治構造を変革しない部分的な制度改革だけでは、列強の圧力に対抗できないことを示した歴史的事件として評価されている。