臨時大総統
臨時大総統は、辛亥革命ののちに成立した中華民国において、正式な憲法体制が整うまで国家元首として置かれた地位である。最初の臨時大総統は革命指導者の孫文であり、その後、北洋軍を掌握していた袁世凱に引き継がれた。この称号は、清朝皇帝による君主制から共和制への転換期における「暫定的な最高権力者」を意味し、革命政権の正統性を内外に示す役割を果たした。辛亥革命の軍事的基盤となった新軍の蜂起や、各省諸勢力の妥協の産物として成立した点に特色がある。
辛亥革命と南京臨時政府の成立
1911年の武昌蜂起を契機に各省が次々と清朝からの独立を宣言し、革命勢力は南京に政府を樹立した。この南京臨時政府は、君主制を廃し共和制国家を建設することを目標とし、統一的な国家元首として臨時大総統職の創設を決定した。背景には、清末の立憲化を目指した戊戌の政変や、立憲準備の一環である憲法大綱の公布、さらには科挙の廃止など、清朝が近代国家への転換を模索しながらも十分な改革を成し得なかった事情があった。こうした不徹底な改革に対する不満が、共和制を掲げる臨時政府の樹立と臨時大総統創設へとつながったのである。
孫文の就任と三民主義
1911年末、南京に集まった各省代表は、革命運動を主導してきた中国同盟会の指導者孫文を臨時大総統に推挙した。1912年1月1日、孫文は就任宣誓を行い、中華民国の成立を内外に宣言した。孫文は政治綱領として三民主義を掲げ、民族独立・民権伸長・民生安定を目指す近代国家像を示したが、実際の軍事力と財政基盤は乏しく、北方の袁世凱率いる北洋軍に依存せざるを得なかった。そのため孫文の臨時大総統としての統治は象徴的色彩が強く、清朝打倒と共和国樹立を成し遂げたのち、権力の移譲を条件に退任することを決意するに至った。
袁世凱への権力移行と北京政府
清朝最後の皇帝溥儀の退位交渉を主導した袁世凱は、その見返りとして臨時大総統の地位を要求した。孫文は、全国的な統一と清朝退位を優先し、自ら辞任して袁世凱への権力移譲を受け入れた。1912年3月、袁世凱は北京で臨時大総統に就任し、政府の中心は南京から北京へ移った。この北京政府は、日露戦争後の国際秩序を画したポーツマス条約以降に強まった列強の圧力や、鉄道利権をめぐる鉄道国有化政策と四川暴動などの混乱を引き継ぎながら、名目上の共和国として出発したが、実態は袁世凱個人の権力強化へと傾斜していった。
臨時約法と臨時大総統の権限
中華民国では、清末の立憲構想を踏まえつつ、1912年に「臨時約法」と呼ばれる暫定的な憲法が制定され、そこに臨時大総統の権限と責任が規定された。臨時大総統は、行政権の中心として内閣総理大臣や各部大臣の任免、軍隊統帥、外交権の行使などを担当したが、その権力は国会の監督や法律によって一定の制限を受ける建前であった。もっとも、実際には袁世凱が国会を圧迫し、約法を無視して権力集中を進めたため、共和制の理念と現実の政治運営との間には大きな乖離が生じた。この矛盾はやがて第二革命や護国運動など、反袁世凱運動の高まりへとつながっていく。
中国革命史における意義
臨時大総統という称号は、君主制から共和国への移行期に限定された暫定的な制度であったが、その象徴的意義は大きい。中国史上はじめて皇帝ではない国家元首が公的に認められ、主権在民を掲げる国家が成立したことを示す位置づけを持つからである。孫文はのちに広東で非常時の非常大総統を称し、南北に分裂した政権を通じて革命の継続を訴えたが、その背景には、辛亥革命期の臨時大総統経験があったといえる。また、海外在住の華人・華僑の支援を得た中国革命と華僑の運動は、この臨時政権を正統な中華民国政府として支えることで、近代中国における主権と正統性のあり方をめぐる議論を大きく動かしたのである。