北洋軍閥|中国近代政治の支配者

北洋軍閥

北洋軍閥は、清末に編制された北洋軍を基盤として台頭し、辛亥革命後の中華民国初期から北伐までの時期に華北を中心に支配した軍事勢力である。彼らは形式上は北京の中華民国政府を奉じつつも、実際には各地に軍事力と財政基盤を有する軍事集団として割拠し、中国をいわゆる「軍閥割拠」の状態に陥らせた。中心人物は袁世凱に始まり、その死後は安徽派・直隷派・奉天派といった諸派に分裂して抗争を繰り返した。

成立の背景

北洋軍閥の起源は、清朝末期に近代化を目指して創設された新軍の一つである北洋軍にさかのぼる。北洋軍は直隷総督を務めた袁世凱が掌握し、日清戦争後の軍制改革の中核として拡大した部隊であった。辛亥革命が勃発すると、武力を背景に清朝と革命派の間を仲介し、やがて中華民国臨時大総統に就任した袁世凱が北京政府の実権を握る。この時期、北洋軍出身の軍人・官僚が中央政界と地方軍を支配し、袁の死後もその人脈と部隊は分裂しながらも中国政治の中心勢力として存続した。

主な勢力と派閥構造

北洋軍閥は一枚岩ではなく、袁世凱に仕えた軍人たちがそれぞれ独自の勢力圏を築くことで、いくつかの派閥に分かれた。代表的なのが段祺瑞らの安徽派、馮国璋・曹錕・呉佩孚らの直隷派、そして張作霖の奉天派である。これらの派閥は、北京政府の主導権や華北・東北の支配権をめぐって、たびたび軍事衝突を引き起こし、中国の統一と近代国家建設を大きく妨げた。

安徽派

安徽派は段祺瑞を中心とするグループで、第1次世界大戦期に北京政府を掌握した。彼らは日本からの借款を受けて軍備拡張と政局運営を行い、対外的には協調外交と列強との提携を志向したが、国内では軍事力と官僚機構を背景に強権的な政治を行った。やがて直隷派との対立が激化し、1920年の直皖戦争で敗北して中央政界から退くことになった。

直隷派

直隷派は馮国璋・曹錕・呉佩孚ら、直隷(河北)出身の北洋軍人を中心とする勢力で、商工業者や一部の列強の支持を受けて台頭した。安徽派を打倒したのち北京政府を支配し、議会工作や買収を通じて政権を維持したが、内部の対立に加え奉天派との戦争で次第に弱体化した。直隷派と奉天派の抗争は、華北一帯をたびたび戦場とし、農村経済と都市生活に深刻な打撃を与えた。

奉天派

奉天派は東北(満洲)を支配した張作霖の勢力で、満鉄沿線の利権を持つ日本の影響を強く受けつつも、独自の軍事力と財政基盤を築いた。張作霖はたびたび華北に進出して北京政府の掌握を試み、直隷派との間で戦争を繰り返した。彼の政権は地方色が強く、東北の近代工業や鉄道網に依拠しながらも、全中国の統一より勢力圏維持を優先した点に特徴がある。

政治支配と社会への影響

北洋軍閥の支配期、北京政府は憲法と議会制度を形式的には維持しつつも、実際には軍事力を握る軍閥が政権を左右した。政府の更迭はしばしばクーデタや軍事圧力によって行われ、地方でも軍閥配下の督軍・巡閲使が税収や司法を掌握した。このため地方軍隊の乱立と徴税の濫用が広がり、農民や都市住民は重税と治安悪化に苦しんだ。他方で、こうした混乱は五四運動に象徴される民族運動や、後の中国共産党・国民党の組織化を促す要因ともなった。

北伐と北洋軍閥の終焉

1926年に広東の国民革命軍が開始した北伐は、孫文の三民主義を掲げて中国統一を目指す運動であり、その主要な敵が北洋軍閥であった。各地の軍閥の一部が国民革命軍側に転じるなか、直隷派や奉天派は敗北と離反により急速に衰退し、1928年には北京政府が崩壊して南京国民政府が全国政府として樹立された。以後も地方軍閥は残存したが、北洋軍出身の勢力が北京で中央政権を握る時代は終わり、軍閥割拠の象徴としての北洋軍閥という呼称も歴史的概念として語られるようになった。