宗教寛容令
宗教寛容令は、18世紀後半のハプスブルク帝国で採用された宗教政策であり、とくに1781年に神聖ローマ皇帝ヨーゼフ2世が発した勅令を指すことが多い。強固なカトリック国家であったオーストリアにおいて、プロテスタントや東方正教会の信徒に一定の信教の自由と市民権を認めた画期的な政策であり、啓蒙思想に支えられた改革として位置づけられる。この勅令は、従来カトリック教会が独占していた宗教・教育・社会生活の領域に変化をもたらし、多民族・多宗派から成るハプスブルク帝国の統治を安定させようとする試みであった。
歴史的背景
16世紀の宗教改革とそれに続く三十年戦争を経て、ハプスブルク家はカトリック信仰を帝国支配の基盤としてきた。とりわけボヘミアやハンガリーなどではプロテスタント信徒が多く、カトリックへの改宗強制や差別的な法制度が長く続いた。しかし18世紀になると、理性と寛容を重んじる啓蒙思想が広まり、信仰を理由とする迫害や排除は非合理であると批判されるようになった。このような思想的潮流の下で、ヨーゼフ2世は宗教対立を和らげ、国家全体の統合を図るために宗教寛容令を発したのである。
ヨーゼフ2世と啓蒙専制
ヨーゼフ2世は、理性に基づく改革を推進した啓蒙専制君主の代表例とされる。彼はカトリックの信徒でありながら、国家の利益を教会より上位に置き、修道院の整理や教会特権の縮小などを進めた。こうした一連の政策の中に宗教寛容令も位置づけられ、国家に忠誠を尽くす限り、臣民の宗派は統治上の障害とならないという考えが示された。ヨーゼフ2世は農奴解放や行政改革なども行い、ハプスブルク帝国を近代国家へと変革しようとしたが、急進的な改革はしばしば貴族や聖職者の反発を招いた。
宗教寛容令の主な内容
宗教寛容令は、カトリック教会を国家の優越的宗教と位置づけつつ、プロテスタントや東方正教会など非カトリック教徒に一定の権利を認めた点に特色がある。彼らは公式に信仰を持つことを許され、登記された共同体として礼拝堂や学校を設立できるようになった。また、職業選択や不動産所有、行政・軍務への参加など、従来制限されていた市民的権利が拡大された。ただし、鐘楼や外から目立つ教会建築は禁止されるなど、カトリックとの完全な平等には至らず、象徴的な差別は残された。
多民族帝国における影響
ハプスブルク帝国には、ドイツ系、チェコ系、マジャル系、ルーマニア系など多様な民族と宗派が共存していた。宗教寛容令は、こうした諸民族の間の緊張を緩和し、国家への忠誠心を高めることを狙った政策であった。プロテスタントや正教徒のエリート層は教育と職業の機会を得て、官僚制や軍隊の中で活躍する道が開かれた。一方で、宗派の壁が薄れることは、のちに各民族が独自の文化と歴史を再評価し、民族運動を展開する土壌にもなったと考えられている。
カトリック教会との関係
宗教寛容令は、カトリック教会にとって大きな譲歩を意味した。長く特権的地位を享受してきた教会は、他宗派の合法化を国家権力から押しつけられる形となり、多くの聖職者が反対した。ヨーゼフ2世は、それまで宗教統制を担ってきた教会の権限を縮小し、国家による上からの管理へと切り替えようとした点で、フランスのルイ14世が採った政策とは対照的である。この変化は、やがて教会と国家の関係を再定義する動きへとつながっていった。
他地域の寛容政策との比較
宗教寛容令は、ヨーロッパ各地で進んだ宗教寛容の流れの一環として理解されることが多い。フランスでは16世紀末のナントの勅令が、イングランドでは17世紀末の寛容法が、それぞれ少数派プロテスタントに信教の自由を与えた。また、プロイセンのフリードリヒ2世も宗教に対して比較的寛大な姿勢をとり、「各人は天国への道を自ら選べばよい」と語ったと伝えられる。これらの例と比べると、ヨーゼフ2世の勅令は、多民族帝国の統治と行政合理化を強く意識した国家主導の宗教寛容政策として特徴づけられる。
その後の展開と歴史的意義
ヨーゼフ2世の死後、一部の改革は後継者によって修正・撤回されたが、宗教寛容令は完全には廃止されず、ハプスブルク帝国における宗教多元化の基盤として残った。のちに19世紀の立憲体制や市民社会の発展が進むと、信教の自由は基本的人権の一部として再確認されることになる。こうした流れの先駆けとして、ヨーゼフ2世の宗教政策は、絶対王政から近代国家への移行過程を理解するうえで重要な事例であり、絶対王政と近代的な人権思想の交錯点として評価されている。