ヨシフ・スターリン|ソ連を支配した独裁者

ヨシフ・スターリン

スターリン(1878.12.18–1953.3.5)はレーニンの死後、共産党を引き継いだソビエト連邦の指導者である。なお、スターリンという名は、ロシア語で「鉄の男」を意味する、レーニンが名付けた党の活動名で、本名は「ヨシフ・ヴィサリオノヴィチ・ジュガシヴィリ」という。第二代最高指導者としてソ連で独裁体制を築き、恐怖政治を行った。

スターリンの生誕

1879年、グルジアの靴職人の子として生まれた。貧しい家庭ながらも成績がよく、神学校に入学した。進学校でも頭角を現し、極めて優秀であったが、学生時代から共産主義運動を始めたため、放校になる。その後、スターリンは、革命と称し、テロ、暗殺、銀行強盗、売春宿経営などを行った。

売春宿経営

スターリンは何軒もの売春宿を経営し、客が支払った金のうち、1割を娼婦、店の運営に5割支払い、スターリンは残り4割を受け取り活動資金としていた。受け取った4割の金のうち、どれだけを党に献金していたかはわかっていない。本来、人間による人間の搾取に反対している共産主義者がこのような方法で資金集めしていたことで、事情を知る者から非難が集まった。特にレーニンは、手紙を送ってこれを非難している。

「人間による人間の搾取に反対して闘うわれわれが、どんな人間にせよ、たとえそれが売春婦であろうと、人間を搾取していると非難されでもしたら、これはわれわれの運動に破滅的な打撃となるだろう」(『スターリン』)

女性関係

スターリンは、最初の妻エカテリーナ・スワニーゼと死別した後、次々に結婚したり、愛人を作ったりしましたが、女性たちが、スターリンの残虐さや女性関係の派手さにあきれてスターリンを批判すると、その女性たちは、不審な死を遂げたり、いつのまにか姿を消したと言われている。

レーニンの死後

1917年のロシア革命で政権を握ったロシア社会民主労働党(のちの共産党)は、レーニンが率いていました。レーニンが体調を崩した晩年、スターリンが共産党の座につくことになる。1924年1月にレーニンが死ぬが、その遺書にはスターリンの凶暴性から、スターリンの失脚を促す旨が書かれていた。しかし、遺書の開封の際、スターリンも立ち会ったため、実行されることはなかった。その後、党内での権力を掌握していなかったスターリンは、まず党内の保守派と組んで改革派を弾圧し、その後、保守派を弾圧するという手口で政敵を一掃して、絶対的な権力を握った。

独裁体制

スターリンは独裁体制を構築し、恐怖政治は、反逆者の疑いがあるものは投獄、殺害した。また、自分の眠りを妨げたという理由で、盲導犬とその盲人すらも殺害したと言われる。

農業衰退

ロシア革命が成功した後、ソ連は重工業を重視した経済政策を推し進めた。「社会主義の優越性」を世界に誇示するため、国家の財政を重工業に注ぎ込んだ。強引な重工業化が行われた一方、そのしわ寄せが農家に向かい、農産物の価格が低く抑えられることになった。価格の暴落にともない、農家は農産物の供給を限定するようになる。

農業集団化

農業集団化とは、スターリンが行った農業政策で、個々の農家がそれぞれ農業をするのをやめさせ、全員を集団農場に集めて働かせ、収穫した農産物を国家に納めさせた。スターリンは、農業の停滞の原因は富農(農村に残った資本家)による搾取であると考え、農業でも社会主義を適用して完全国営化し、富農の淘汰を実行した。

農家の抵抗

集団農場が各地に作られ、個人の農家が持つ土地は取り上げられ、集団農場のものとなると、農家が持っている家畜も取り上げられたため、それに絶望した農家は自らその家畜を殺したケースが広範囲に行われた。

富農の粛正

農村地帯では、富農と判断された農家は殺害あるいは強制収容所での強制労働に従事させた。この富農絶滅政策により、900万人近い農民が農地を追われ、そのうちの半分が処刑されたといわれている。農業に熱心な篤農家であった富農が淘汰されたことにより、優秀な農家が絶滅、農家全体の労働意欲が低下した。

貧農

貧農と判断された農家は、集団農場の労働者として従事させられた。労働形態は一日に決められた労働時間(たとえば9時ー17時)によって決まった固定給であった。そのため、時間外労働は行われず、労働意欲も低下し、また農業は自然の環境変化の中で順応しなければならず、連国内の農産物の収穫高は、大幅に低下した。

未経験者の農業指導者

富農や貧農の解体に加えて、ソ連の農業の指導が経験者でも専門家でもなかったため、誤った認識や判断が連続して下された。ロシアの穀倉地帯と呼ばれ、常に豊かだったウクライナなどでも飢饉が発生し、豊かだったロシアの農村で農民が餓死するという悲劇が繰り返された。徹底した農業基盤の破壊により、ソ連の崩壊まで食糧不足が続いた。

少数民族の弾圧

ロシア革命でソ連が誕生した時、ロシア帝国は1億人を超えていたが、多民族国家で、少数民族がソ連各地で生活していた。少数民族の団結と反乱を懸念したスターリンは、集団移転させる弾圧政策を実行する。

チェチェンへの弾圧

スターリンは、チェチェンにたいして、その住民を中央アジアやシベリアに集団移転させた。スターリン死後、チェチェン人は故郷に帰ることが許されましたが、ロシアに対する恨み、不信感は強まり、現代も反ロシア活動が行われている。

タタールへの弾圧

ロシアのクリミア半島に住んでいたタタール人は、ウズベキスタンに移住させた。タタール人を追い出した後には、ロシア人が住み着き、ソ連が崩壊した後も、タタール人は、クリミアへの帰還運動を続けている。

イスラム教の民族の分断

スターリンは、中央アジアのイスラム教の民族による団結・反乱を恐れ、5つの共和国への分割政策を分断した。現在のカザフスタン、キルギス、ウズベキスタン、タジキスタン、トルクメニスタンという独立国である。現在もスターリンによって無理に分割された中央アジアに、イスラム教徒の統一された国家を建設しようという武装ゲリラ組織が存在する。

スターリン暴落

1952年、スターリンの死去が公表されると、アメリカなど各地の株式市場は「スターリン暴落」と呼ばれる暴落が起きた。世界の半分を支配するソ連の指導者が姿を消すことで、世界の秩序に大きな混乱が起きるのではないかと懸念した人たちが株の売却に走ったためである。

ソ連共産党第20回大会

1956年2月、ソ連共産党第20回大会が開かれたが、大会の最終日、非公開の会議が開かれ、フルシチョフ第一書記が、スターリンに関する、彼のソ連での蛮行の秘密報告が行い、ここからスターリン批判が展開される。絶対視されていたスターリンが批判されることで、世界中の共産主義者や共産主義国が動揺し、また共産主義国の衰退が始まった。

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