宋
宋は960年に趙匡胤が建てた中国王朝で、北の外圧と内政の高度化がせめぎ合う中で、都市の繁栄、商業の飛躍、学術の体系化を推し進めた政権である。前史としての五代十国の分裂状況を収束させ、北では遼・西夏・のちの金と対峙しながら、国内では科挙官僚を中核とする文治主義を確立した。やがて1127年の靖康の変で北都を失い南へ移動して南宋が続くが、海上貿易と江南経済の発展により、世界史的にも稀な商業化・都市化の段階に達した。
成立と体制
北宋の創業者趙匡胤は軍権の分散と文官重視を徹底し、権限が相互牽制する中枢機構を整備した。皇帝は財政・軍事・行政を分けて統制し、科挙で登用された士大夫を広く登用して人治から制度運営へと転換した。この体制は軍閥化の防止に有効であった一方、対外軍事の即応力には課題を残した。
北宋と南宋
北宋は開封を中心に黄河流域を掌握したが、遼・西夏との講和や歳幣支出が財政を圧迫した。1127年、金の侵攻で皇帝が北方に連行されると朝廷は長江以南に移って臨安を都とし、南宋が成立する。南宋は機動的な水軍と江南の豊かな税基を背景に持久防衛を展開し、長江—淮河線での均衡と海上交易の拡大によって国力を維持した。
経済の躍進
宋代の最大の特徴は商業化と貨幣流通の爆発的増大である。銅銭の大量鋳造と遠隔交易の活発化により市場は全国に張り巡らされ、江南の二期作や占城稲の普及が人口・都市を押し上げた。紙幣「交子・会子」の流通は信用取引を促し、商品作物や手工業生産が専門化する。市舶司の設置は海外との交易を制度化し、海上輸入と関税収入の安定をもたらした。
王安石の新法と政治対立
北宋中期、改革家王安石は財政難と軍事負担に対処するため、青苗法・募役法・市易法・保甲法・保馬法など「新法」を断行した。これは中小農・商人の資金循環を支えつつ国家の動員力を高める狙いであったが、物価攪乱や官の過干渉を批判する旧法党と鋭く対立し、政局は二派抗争の長期化へと進んだ。保守穏健派の代表には史家の司馬光が知られ、政策は推進と反動を繰り返した。
軍事と対外関係
北宋は遼・西夏に対し講和と軍備の併用で均衡を図ったが、金の勃興で戦局は不利に転じた。南宋は河川・運河を生かす水軍戦と城郭防衛に長じ、火薬兵器や強弩の運用で持久戦を展開した。だが13世紀のモンゴル帝国の圧迫は決定的で、長江水系の要地が次第に切断されると、南宋は次第に包囲されていく。
都市社会と士大夫
宋代の都市は行楽・娯楽・夜市が発達し、行会(ギルド)や廂軍などの都市共同体が秩序を担った。科挙の拡大は地方の秀才を中央へと吸い上げ、士大夫は行政と文化を主導する新たなエリートとして台頭した。書籍市場と貸本屋の普及は読書人を増やし、識字の裾野が拡大した。
学術と思想
印刷術の進歩と書籍流通の増加は学問の分科を促し、朱熹による朱子学の体系化が進んだ。史学では司馬光の大編年史『資治通鑑』が政治判断の教科書として尊重され、理気・心性をめぐる議論が士大夫の倫理と統治理念を支えた。学問は書院という教育機関で培養され、官学と民間の連携がみられた。
技術革新と交易ネットワーク
宋は羅針盤・火薬・印刷の三大技術を実用化段階へ押し上げ、鉄鋼・陶磁・造船における工程管理と大量生産を進めた。景徳鎮の白磁・青磁は国際的商品となり、東南アジアからインド洋へと伸びる海路に乗って輸出された。国家は市舶司を通じて外洋交易を統制しつつ、民間商人の活力を引き出した。
文化芸術
文人画・山水画や詞の洗練は、士大夫の審美と都市の消費社会を反映する。北宋の宮廷絵画は写実と規範の調和を示し、南宋では簡潔な画面構成に精神性が凝縮された。書道や陶磁は実用と美の両立を達成し、都市の生活文化は多彩な娯楽と商品世界を育んだ。
元への移行
13世紀、モンゴルの南下により南宋の防衛線は各所で崩れ、1279年に政権は滅亡して元が中国を統一した。だが宋が築いた文治官僚制、科挙、都市経済、商業税制、そして思想的枠組みは、その後の王朝と東アジア世界に長期の影響を与え続けた。
科挙制度の拡充
科挙は受験機会の拡大と試験科目の整備が進み、皇帝権力と士大夫社会を媒介する制度として機能した。貢挙・制科の運用は時期により変動するが、試験合格は社会的上昇の正規ルートとなり、地方社会の活力を中央に接続した。
他王朝との関連
宋の制度と文化は、前代の唐の遺産を再編しつつ、北方政権の刺激を受けて変容した。遼・西夏・金との対抗と交流は、軍事・財政・法制の刷新を強いた一方、交易と文化接触の回路を広げ、東アジア世界の多極化を促した。