唐
唐は618年に李淵(高祖)が建て、907年に朱全忠によって滅ぼされるまで東アジアの秩序を主導した帝国である。太宗の「貞観の治」により内政と軍事が整い、高宗の時代に版図が最大化した。玄宗の「開元の治」には都市経済と国際交易が頂点に達したが、755年の安史の乱以後、節度使と宦官の専横が深刻化し、黄巣の乱を経て瓦解した。制度面では均田制・租庸調制・府兵制を基軸に出発し、やがて両税法と募兵制へと転換した。長安はシルクロードの結節点として多宗教・多民族が往来し、詩・書・音楽・工芸が開花した。本王朝の制度や文化は日本・朝鮮にも強い影響を及ぼし、律令国家の形成や科挙的選抜のイメージを与えた。
成立と統治機構
隋末の混乱のなかで李淵が挙兵し、即位して高祖となった。秦漢の伝統を継承しつつも、三省六部制を定型化して政策立案・審議・執行を分掌させ、州県制を通じて地方を統治した。土地制度は均田制により口分田を支給し、税制は租・調・庸を基本とする租庸調制を採用した。官人登用では科目を整備した科挙が拡張され、門閥を相対化して官僚制の実効性を高めた。これらの骨格は東アジア諸国の国家形成に参照され、日本の律令制度や官人登用観にも影響を与えた。
対外関係と軍事
初期の軍制は自作農を基盤とする府兵制であったが、辺境戦の長期化により次第に募兵制へ移行した。北方では突厥・回鶻、青海・チベット高原では吐蕃、東北では契丹・靺鞨・渤海と対峙・通交し、西域では安西都護府と四鎮を要点として東西交通を統括した。東アジアでは新羅と連携して高句麗・百済を制圧し、安東都護府を置いて朝鮮半島北部を管理しようとした。西方では751年タラス河畔でアッバース朝軍と交戦し、以後、唐朝の西域支配は相対的に後退した。
- 都護府・都督府の網により羈縻支配を展開した
- 府兵制の弛緩と募兵化が節度使の台頭を促した
社会経済と税制の転換
均田制は戸籍に基づく口分田支給と交換条件の税役負担で維持されたが、戦乱・逃亡・豪族の土地集積により形骸化した。市制は長安・洛陽の坊市制が規格化され、国際交易によって胡商が活発に活動した。8世紀後半には塩の専売や財政再建策が重視され、780年、楊炎の建議により両税法が施行されて、資産と居住地を基礎に夏税・秋税を徴する現金課税へ転換した。これにより本王朝は貨幣経済の実態に近い税制に移り、都市と交易の発展に即した財政構造を獲得した。
- 均田制・租庸調制から両税法への移行
- 坊市制・蕃坊の発展と銭貨流通の拡大
文化・学術と多宗教社会
本王朝は詩と書の黄金期であり、李白・杜甫・王維・白居易らが詩の表現領域を拡張し、書は欧陽詢・褚遂良・顔真卿らが規範を築いた。官人登用では科挙が飛躍し、文章試験を通じて新たな士人層が登場した。宗教面では仏教(禅宗・密教・浄土)が興隆し、道教は国家祭祀と結びつき、景教(ネストリウス派)、祆教(ゾロアスター教)、摩尼教なども受容された。国際都市長安にはソグド人を含む西アジア系商人が集住し、音楽・舞踊・服飾・食文化に「胡風」が取り入れられた。日本・新羅・渤海の留学生・僧侶も往来し、遣唐の経験は日本の大運河観や制度理解にも資した。
安史の乱と後期政治
755年、安禄山・史思明が叛乱を起こし、763年の鎮圧までに国力は著しく損耗した。軍事・財政では節度使が常備軍・財源を掌握し、藩鎮化して中央の統制を掣肘した。宦官は禁軍統帥権と皇帝近侍を背景に発言力を強め、士大夫の党争(牛李の党争)も政治の停滞を招いた。874年の黄巣の乱は各地の藩鎮を動揺させ、やがて朱全忠が台頭して907年に帝位を簒奪し、本王朝は終焉した。軍制の変質は初期の府兵制から募兵・節度使体制への不可逆的な転換を示し、国家運営の重心が地方へ移る結果となった。
国際交流と日本への影響
長安は東西交易のハブであり、シルクロードの陸路・海路の結節として外国人居留地(蕃坊)が整備された。日本は遣唐使・留学僧により法制・都城・仏教・文学・音楽を摂取し、奈良・平安の制度文化の形成に寄与した。前代の隋で築かれた交通網(大運河)と対外政策は本王朝でも継承・発展し、朝鮮半島・渤海・新羅との関係や、高句麗をめぐる戦争(関連して高句麗遠征)は東アジア国際秩序の再編をうながした。日本側の対外使節としては隋・唐いずれにも派遣があり、前段階としての遣隋使は制度受容の基盤を作った。
制度史の意義
本王朝は三省六部制・州県制の洗練、土地・税制の制度化、そして試験選抜の一般化により、後代中国と周辺世界に長期の制度的影響を与えた。租・調・庸を軸とする古典的賦役体系は次第に機能低下し、780年の両税法で貨幣課税へと移行したが、この転換は中世的財政への橋渡しであった。こうした制度変容は日本の租調庸制の理解にも比較軸を与え、東アジアにおける国家経営の共通課題―戸籍管理・耕地配分・軍事動員・財源確保―を浮かび上がらせた。前代隋の強引な大事業(たとえば煬帝の政策)を継ぎつつ、唐は国際都市文化と普遍的な官僚制モデルを提示し、世界史的にも重層的な意義を残した。