元
元(1271–1368)はモンゴル皇帝フビライが建てた王朝で、中国本土・モンゴル高原・チベット・雲南を結ぶ広域支配を確立した政権である。国号は「大元」と称し、草原世界の軍事力と漢地の官僚制・租税を接合し、ユーラシア規模の交通・交易網を国家運営に組み込んだ。南では宋を滅して江南の経済力と造船・海運を接収し、都城(大都)から行省制を用いて地方統治を展開した。紙幣経済の本格化、宗教寛容の理念、多民族統治の試みなど、前代にない制度的実験を重ねた点に特色がある。
成立と国号・領域
フビライは1260年に即位後、1271年に「大元」を称して漢地支配の正統を掲げた。1276年の臨安陥落、1279年の海上決戦で南抵抗は終息し、元は華北から江南、雲南・チベットまでを一体化した。都は大都に置かれ、上都を夏営地とする二都運用が行われた。東アジアの陸海交通の結節点として、運河・駅伝と港湾を統合した補給線が整えられ、国家の軍事・財政を支えた。
中央機構と行省制
中央には中書省(政務)・枢密院(軍事)・御史台(監察)を置き、地方には行中書省(行省)を配して重層的な行政を実施した。行省は複数の路・府・州を束ね、財政・軍事・司法を包括的に管轄する「出先内閣」として機能した。遊牧起源の機動性と漢地の文書主義を接合したこの制度は、大都から遠隔地までの迅速な意思伝達と徴発を可能にし、元統治の骨格となった。
行省の運用
- 地域事情に応じて文武官を混成配置し、山川・海陸の輸送路を掌握した。
- 軍事遠征時には臨時の指揮系を編成し、後に常設化して行政網へ編入した。
- 駅逓・文移の標準化により、税穀・塩・軍需の移送を平準化した。
多民族社会と統治原理
元は蒙古人・色目人・漢人・南人など出自の異なる人々で構成され、言語・宗教・法慣行の差異を包含した。チベット仏教の保護、イスラーム共同体の実務登用、道教・漢地仏教・景教などへの寛容は、支配正当化の理念装置として機能した。他方で徴税・軍役・移住に伴う摩擦は大きく、監察・訴訟・赦免の枠組みを通じて対処が図られた。
経済構造と紙幣・江南の役割
江南の稲作・手工業・商業は元の財政基盤であり、塩・輸送・市舶の統制が国家収入を支えた。国家発行の紙幣は銭納から鈔納へ比重を移し、広域市場の決済を加速したが、後期には乱発と物価変動が深刻化する。江南の都市・水郷社会の生産力は、国家の海陸遠征や都市整備に転用され、その文化的蓄積は江南独自の学芸にも継承された。
海陸拡張と国際秩序
元の遠征活動は、日本・大越・占城・雲南・ビルマ・爪哇などに及び、冊封・朝貢と軍事行動を併用して周辺秩序の再編を試みた。ビルマ方面ではパガン朝の体制転換を誘発し、航路では東南アジアの諸港と接続した。西方ではモンゴル帝国の分封により、イラン方面のイル=ハン国、東欧草原のキプチャク=ハン国が並立し、ルーシではタタールのくびきと呼ばれる支配構造が整った。これらは元の外交・交通政策と呼応して、ユーラシアの人・物・情報の往還をかつてない規模で促進した。
知の編纂と文化
宮廷・官署では地理・度量衡・法令・兵站に関する文書が整備され、モンゴル史を含む通史の編纂も進んだ。とりわけペルシア語史書集史は、各ウルスの系譜・制度・交易路を同時代視野で総合し、元期を含む帝国世界の可視化に寄与した。都市では漢文学・書画・工芸が継続し、異文化の技術・意匠が融合して独自の宮廷文化が開花した。
財政危機と崩壊
14世紀に入ると洪水・疫病・戦費が重なり、紙幣の信用下落や地方軍の自立化が進行した。紅巾の乱をはじめ各地の反乱が頻発し、1368年に朱元璋が入京して明を樹立すると、宮廷は北へ退却した(いわゆる北元)。とはいえ、元が構築した行省制の広域行政、海陸連結の兵站、宗教寛容や多民族人材登用の実務は、以後の東アジア・ユーラシア世界に長期の制度遺産を残した。