タタールのくびき|モンゴルの支配下に置かれたルーシ

タタールのくびき

タタールのくびきとは、13世紀半ばから15世紀末にかけて、ロシア諸公国がキプチャク平原に成立した「ジョチ・ウルス(いわゆるGolden Horde)」の宗主権下に服した状態を指す概念である。軍事的破壊と朝貢(ヴィホート)・統治監督が続いたが、多くの公国は自立的な内部行政と正教会の組織を保持し、完全な直轄支配ではなかった点に特徴がある。年貢賦課、国勢調査、通行網の整備、君主任命の裁可(ジャールィク)などの装置を通じて、諸公国の政治秩序と地域間力学は大きく組み替えられた。

成立の背景と侵攻の展開

契機はモンゴル帝国の西征である。1223年のカルカ河畔の戦いで諸公が敗北し、1237年からバトゥ率いる軍がリャザン、ウラジーミル、1240年にはキーウを陥落させた。以後、ヴォルガ下流域のサライを中心に「Kipchak Khanate」が整い、ルーシ諸公は宗主権を認めて貢納し、対外・対内政策で裁可を仰ぐ枠組みに組み込まれた。この体制を後世、タタールのくびきと総称する。

支配の仕組み:朝貢・監督・裁可

支配の中核は貢納(ヴィホート)で、人口と資源を把握するための調査(チスロ)と徴税が実施された。初期にはバスカク(徴税監督官)が派遣されたが、のちに有力諸公が「大公位ジャールィク」を得て自ら徴税者として機能し、宗主権と地方権力が接合した。交通制度ヤム(駅逓)は外交・軍事・課税を支え、要地では軍事駐留や再度の懲罰遠征が秩序維持に用いられた。

モスクワの台頭と政治地図の再編

14世紀、モスクワは大公位の裁可と徴税請負を梃子に周辺公国へ影響力を拡大した。財力の集中、教会首座の移転、外交的柔軟性が相乗し、モスクワは宗主権の下で「秩序の仲介者」として台頭した。他方、トヴェリなどは反乱や対抗を試み、地域権力間の競合はしばしば宗主者の介入を招いた。

抵抗と戦争:クルィコヴォからウグラへ

1380年、ドミトリー・ドンスコイはクルィコヴォの戦いでタタール側に勝利し、象徴的転機を画した。ただし直後にトフタミシュがモスクワを焼討し、宗主権は継続する。15世紀、内紛やティムールの遠征でGolden Hordeが分裂・弱体化すると、1480年のウグラ河畔の対峙でイヴァン3世が実力排除に成功し、慣行上の従属は終焉したとされる。

経済・社会への影響

侵攻期の破壊と奴隷化は都市と農村に深い損耗を与えた。他方で、隊商路・駅逓網の維持は東方—北東欧間の交流を保ち、毛皮・穀物・金属資源の移出入が続いた。軍事面では騎射・機動戦への適応、服属者動員と徴発の制度化が進み、のちの奉公騎士制や地方動員の枠組みに長期的痕跡を残した。

宗教と文化の持続と変容

正教会は課税免除や財産保護の特権を与えられ、教会組織と修道院経済は拡大した。アイコン崇敬や文書文化は継続し、外交文書・裁可文書の整備は書記実務を刺激した。イスラーム・テュルク系文化圏との接触は言語・軍事・装身具などの細部に反映し、地域的混淆を生んだ。

リトアニアと西方の圧力

西方ではリトアニア大公国がルーシ西半を編入し、宗主権の版図は実質的に縮退した。宗派・法慣習・土地制度の差異が広がることで、後世のロシア国家形成は「東の宗主権の遺制」と「西方的要素」の交錯の上に進んだ。

用語と史料の呼称

同時代史料では「タタール」はモンゴル・テュルク系勢力の包括名で、後世のロシア史叙述は「タタール=モンゴル」とも呼ぶ。近代以降に一般化した概念語がタタールのくびきであり、その範囲・強度・影響の評価は時代と立場により変遷してきた。

ジャールィク(裁可文書)

大公位や課税権の承認を与える勅許で、対立諸公の優劣を定める政治的効力を持った。これがモスクワ優位の制度的基盤となり、地方秩序の再編を促した。

バスカクと徴税体制

初期の監督官は徴税・軍事の実務を担い、暴動や緊張を誘発した。のちに在地の諸公・代官へ機能が移譲され、間接統治の度合いが高まった。

歴史学上の評価と再検討

タタールのくびきは長らく停滞・遅延の原因と見なされたが、近年は行政・軍事・交通の制度移植と、それに対する諸公国の主体的対応を重視する分析も多い。衰退の契機をGolden Horde側の分裂に求めるか、北東ルーシの集権化に求めるかも議論点である。

長期的意義

宗主権のもとで地域秩序が再構築され、モスクワは財政と軍事動員を掌握する核として成長した。ウグラ以後も税制・軍役・道路網などの制度的遺産は残存し、ユーラシア草原世界との結節としての経験は、後世の対外政策と国家像の形成に深く刻まれた。