フベルトゥスブルク条約
フベルトゥスブルク条約は、1763年に締結されたプロイセンとオーストリア・ザクセンとの講和条約であり、シュレジェンをめぐる一連の戦争、とりわけ七年戦争における第三次シュレジェン戦争を終結させた条約である。同年に締結されたパリ条約が海上・植民地戦争を処理したのに対し、フベルトゥスブルク条約はドイツ中部・中欧における領土問題を整理し、プロイセン王国のシュレジェン支配と大国化を最終的に確認した点で重要である。
成立の歴史的背景
18世紀前半、ハプスブルク家の家督争いから発したオーストリア継承戦争とシュレジェン戦争によって、フリードリヒ2世率いるプロイセンは富裕な工業地域シュレジェンを獲得した。しかしマリア=テレジアはこの損失を受け入れず、フランスやロシアと結んで「外交革命」を進め、プロイセン包囲を図った。その結果として勃発したのが七年戦争である。七年戦争ではオーストリア・フランス・ロシア・ザクセンなどが対プロイセン包囲網を形成したが、フリードリヒ2世の軍事的才能とロシアの離脱によって、最終的にプロイセンはシュレジェンの保持に成功した。この軍事的均衡の上に、フベルトゥスブルク条約締結の条件が整えられたのである。
フベルトゥスブルク城と講和交渉
フベルトゥスブルク条約は、ザクセン選帝侯の狩猟城館フベルトゥスブルク城で交渉・調印された。七年戦争でロレーヌなど西方戦線が動く一方、ザクセンはプロイセン軍の占領と徴発で深刻な被害を受けており、早期講和を強く望んでいた。プロイセン側ではフリードリヒ2世が、オーストリア側ではマリア=テレジアと宰相カウニッツが基本方針を定め、外交官どうしの実務交渉が進められた。ヨーロッパ全体ではすでに英仏間でパリ条約がまとまりつつあり、大戦の収束気運が高まっていたことも、フベルトゥスブルクでの妥協を後押しした。
条約の主な内容
- 第一に、フベルトゥスブルク条約はシュレジェン問題を決着させた。オーストリアはシュレジェンおよびグラーツ公国に対するプロイセンの主権を最終的に承認し、シュレジェン奪回の試みはここで終止符が打たれた。
- 第二に、プロイセン・オーストリア・ザクセンのあいだでほぼ戦前と同じ領土状態、いわゆる「status quo ante bellum」が回復された。ザクセンは領土を取り戻したが、戦時中に受けた財政的損害を補うため、プロイセンへの一定の金銭支払いを義務づけられた。
- 第三に、条約は宗教的・身分的秩序には踏み込まず、神聖ローマ帝国の制度や諸身分の権利を原則として維持した。ゆえに条約は体制変革というより、既存秩序の枠内での勢力分配の再確認であった。
条約文書の性格
フベルトゥスブルク条約は、勝者プロイセンが大規模な領土拡張を行うのではなく、すでに占有していたシュレジェン支配の承認を得ることに主眼を置いた、比較的限定的な講和であった。その文言は複雑な国際情勢を反映しつつも、伝統的な君主制・身分制秩序の枠組みを守るものであり、絶対主義国家どうしの妥協の産物といえる。
ヨーロッパ国際秩序への影響
フベルトゥスブルク条約によって、プロイセンは正式にシュレジェンを獲得し、ヨーロッパ列強の一員としての地位を確立した。これはハプスブルク家主導のドイツ秩序に対抗する「プロイセン対オーストリア」の二重構造をはっきりさせる結果となり、のちのドイツ統一過程に長期的な影響を与える。また、条約はオーストリアにとって敗北の確認でありつつも、他の領土と権威を保持することで、大国としての地位を辛うじて維持することを可能にした。このようにフベルトゥスブルク条約は、勢力均衡の中で両大国の共存を前提とする18世紀後半の国際秩序を形づくったのである。
歴史学における位置づけ
歴史学においてフベルトゥスブルク条約は、七年戦争とシュレジェン戦争の終結条約であると同時に、プロイセン型軍事国家の成功を印象づけた出来事として評価されている。フリードリヒ2世の巧みな外交・軍事運営と、マリア=テレジアの粘り強い対抗のせめぎ合いはいずれも絶対主義国家の典型として研究されており、条約はその帰結として理解される。また、条約後もプロイセンとオーストリアの対立は続き、19世紀のドイツ問題へと連続していくため、プロイセンとオーストリアの関係史をたどるうえで不可欠な節目とみなされている。