シュレジェン|中欧の鉱業と征服の地

シュレジェン

シュレジェンは、現在のポーランド南西部、オーデル川上流域に広がる歴史的地域である。中世以来、ポーランド世界とドイツ世界、さらにボヘミア(チェコ)世界が接する境界地帯であり、しばしば領土争いと戦争の舞台となった。都市ヴロツワフ(ドイツ語名ブレスラウ)を中心に、鉱山資源と工業力に恵まれ、近代には中欧有数の工業地域として発展した点でも、ヨーロッパ史の中で重要な位置を占める地域である。

地理と位置

シュレジェンは、北にオーデル川中流域、南にズデーテン山地を境界として広がる。西側は旧ドイツ領・ラウジッツ地方、東側はポーランド中部および上シレジアへと続く。交通の要衝ヴロツワフは、エルベ川流域とヴィスワ川流域を結ぶ中継地であり、後世には鉄道網・運河網が集中した。こうした地理的条件は、ヨーロッパの東西・南北を結ぶ回廊としての性格を強め、他地域と同様に軍事上の要衝とされた点で、地中海への出口を押さえるジブラルタルとも比較される。

中世ポーランドとボヘミア

中世前期、現在のシュレジェン地域はピャスト朝ポーランド王国の一部として統合されていたが、12世紀以降の分裂により幾つもの公国に分割された。この過程でドイツ人入植が進展し、都市法を導入したドイツ系市民や修道院が多数成立した。いわゆる東方植民(オストゼードルング)の波の中で、ポーランド系農民とドイツ系市民が共存する多民族地域となったのである。14世紀には、諸公がボヘミア王に臣従し、やがてボヘミア王冠領の一部として神聖ローマ帝国の枠組みに組み込まれた。

ハプスブルク支配と宗教改革

1526年、ボヘミア王位とともにシュレジェンはハプスブルク家の支配下に入る。16世紀にはルター派・カルヴァン派などの宗教改革が広がり、多くの都市や貴族がプロテスタント化したが、君主はカトリックの立場を維持した。この宗教的分裂は、ハプスブルク君主国の内部矛盾を深め、後の対立の伏線となる。同じく宗派対立と王位継承問題が絡み合ったポーランド継承戦争や、ヨーロッパ各地の係争地域ロレーヌと同様、王朝外交と信仰対立が重なり合う「周縁の舞台」であった。

プロイセンによる獲得とシュレジェン戦争

18世紀に入ると、北方の軍事国家プロイセンが台頭し、シュレジェンはその主要な獲得目標となる。即位したフリードリヒ2世は、父フリードリヒ=ヴィルヘルム1世が整備した常備軍を背景に、1740年にこの地域へ侵攻した。これにより勃発した一連の戦争は「シュレジェン戦争」と総称され、同時期のオーストリア継承戦争と密接に結びつく。結果として大部分のシュレジェンはプロイセン領となり、ハプスブルク君主国とプロイセンとオーストリアの長期対立が本格化した。

工業化と多民族社会

プロイセン支配下で、シュレジェンは18〜19世紀にかけて石炭・鉄鉱石などの地下資源を基盤とする工業地帯として発展した。炭鉱、金属精錬、紡績業が集中し、ドイツ帝国期にはライン地方と並ぶ重工業地域となった。同時に、ドイツ人、ポーランド人、チェコ人、ユダヤ人などが混在する多民族社会が形成され、民族運動と社会主義運動が複雑に交錯した。このような民族境界の地域がしばしば国際政治の焦点となる点は、フランス王ルイ15世治世下で争われた海外植民地アカディアハドソン湾地方とも共通している。

20世紀の国境変動と現在

20世紀になると、シュレジェンは世界大戦と民族問題の震源地の一つとなる。第1次世界大戦後には住民投票と武力衝突を経て一部がポーランドに編入され、第2次世界大戦後の国際秩序再編により、大部分がポーランド領へ移った。ドイツ系住民の多くが追放され、代わって旧東部ポーランドなどからの移住者が定住した。今日、ヴロツワフを中心とするこの地域は、ポーランドの工業・学術・文化の重要拠点であり、歴史的記憶をたどることで、ヨーロッパにおける国境線と民族問題の変遷を理解する手がかりを与えてくれる。